東京都内でロシア語講師や通訳・翻訳などのほか、YouTuberとしても活動されている福田知代さんの『ロシアに関係するお仕事紹介』第7回です。
前回までの連載記事はこちらから
(以下、福田さんのコラムです)
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「日ロドライブ」の読者のみなさん、こんにちは。福田知代です。
連載も、今回で七回目となりました。
このシリーズでは、ロシア語を活かすことのできるお仕事のうち、わたしがフリーランスとしてこれまで経験してきた仕事や立場について、順番にお話ししています。
これまでに、①翻訳のお仕事、②映像翻訳のお仕事、③ロシア語を教えるお仕事、④高校でのさまざまな国際交流プログラム、⑤辞書編纂のお仕事、⑥通訳のお仕事 についてお話ししてきました。
ご興味のある方は、どうぞそちらもご覧になってみてくださいね。
さて今回は、大学でのお仕事について書いてみたいと思います。
と言いましても、大学で教えるお仕事ではなく(※大学で教えていたときのお話は、第三回の「ロシア語を教えるお仕事」で少しだけ触れました)、大学図書館でのお仕事と、大学の国際部でのお仕事について思い出話をしてみたいと思います。
大学図書館でのお仕事も、大学の国際部でのお仕事も、ずっと上の先輩からご紹介いただき、修士課程を修了した2010年の夏からほぼ同時にスタートして、2012年の3月まで一年半続けました。
どちらも週に一度の非常勤職員です。
大学図書館でのお仕事
有名私立大学の図書館でのお仕事は、新しく入ってきたロシア語の書籍や雑誌に関して、パソコンで検索できるように目録を作成するというものでした。
目録を作成する際の書式が厳密に決まっていて(このお仕事をするまでは、まったく知りませんでした)、はじめは日本語の書籍で目録を作成する練習をし、慣れてきたところでロシア語の書籍の目録作成を担当しました。
目録に入力する情報はいろいろあり、たとえば、当然ながら、書籍のタイトル、筆者名、編集者名をそれぞれロシア語と、ラテン文字アルファベットに翻字したもの、そして、出版地、出版年、出版社、ページ数などなど。
わたしは図書の分類法については知識がないので、書籍がどのようなテーマのものであるかをメモに書き、チェック係の職員さんに回します。
この大学の図書館では、目録を作成する係の職員さんたちと、それをチェックする係のベテランの職員さんたち(ロシア語はお分かりにならない方たち)がいて、わたしが作成した目録もチェックしてもらうのですが、すべて完璧に作成するのは難しく、一日で数十冊分の目録を作成して、一、二冊はミスをしてしまっていました。
時には、シリーズの本を全部ミスしてしまっていることもありました……
次の週に出勤して、朝、机の上に前回ミスをした分の書籍が置いてあるのを見て、少しげんなりしたり……
このお仕事の最終日まで、果たして、自分が作成している目録に誤りがなく完璧にできているのかどうか、自信がないままでしたが、初めて手に取る書籍でも、どこにどのような出版情報が載っているのかが、なんとなく分かるようになりました。
わたしは、学生時代には、文学(と科学の分野もほんの少し)の書籍に触れることが多かったのですが、このお仕事では、多種多様なジャンルのロシア語の書籍を扱うことができ、大変興味深かったです。
扱う書籍も、新刊から寄贈された古書まで、本当にさまざまでした。
古書のにおいって、なんだかいいですよね!
大学の国際部でのお仕事
次に、筑波大学の中央アジア事務所でのお仕事について。
身分としては、大学の国際部国際課所属の非常勤職員でした。
こちらも週に一度、基本的に毎週金曜日に筑波大学まで行っていました。
つくばエクスプレスに乗り、つくば駅から大学循環のバスに乗って、片道二時間以上かかって通っていました……
お仕事についてですが、筑波大学は海外拠点をいくつか持っており、そのうちの一つである中央アジア事務所が、ウズベキスタンのタシュケントにあります。
筑波大学内には、そのタシュケントにある中央アジア事務所の「連携事務室」があり、わたしはそこの非常勤職員をしていました。
中央アジア事務所(の筑波大学内の連携事務室)の役割にはいくつかあり、①CIS諸国からの留学生の受け入れ、履修相談、生活面でのサポートなど、②CIS諸国の駐日大使や専門家による講演会のセッティング、国際会議やイベントの運営、代表団の受け入れなど、③CIS諸国で行う留学フェアへの出展、④ニューズレターなどの刊行物の作成などです。
CIS諸国からの留学生のお世話をしたり、現地の大学とやり取りをしたり、現地に出張したりするので、ロシア語力が必須となります。
一緒に働いていた非常勤職員も、大学の先輩がほとんどでした。
わたしは2010年の夏から2012年の春まで、毎週金曜日に中央アジア事務所の非常勤職員をし、そのあとは2014年の春まで外国語センターでロシア語の授業を持っていました。
あの2011年3月11日は、金曜日で、わたしはいつものようにとても早起きをして二時間かけて出勤し、少し年季の入った講義棟の五階にある事務所で作業をしていました。
ちなみに、中央アジア事務所は、大学の職員さんが多くいる法人棟から数百メートル離れた講義棟内にあります(ご存知のように、筑波大学のキャンパスは非常に広大で、東京ドーム約55個分の広さを誇り、その面積は北海道大学に次いで二番目の広さです)。
いつものように粛々と業務を行っていましたが、唯一いつもと違ったのは、その日は事務所にはわたし一人しかいなかったということです。
ちょうど、わたし以外の非常勤職員は、留学フェアでCIS諸国に出張していました。
春休み期間だったので、留学生の対応もなく、イベントの予定もなかったので、わたしは朝から、一年間の活動をまとめたニューズレターを作成していました。
事務所は、同じ階にある先生たちの研究室と同じ作りの部屋なのですが、年季の入った講義棟であるせいで、部屋にもともと設置してある暖房がほとんど効かず、予算内で灯油を購入し、灯油のストーブを使って暖を取っていました。
朝からニューズレターを作成し、昼食を食べて(筑波大学内には食堂がたくさんあって、毎回ランチが楽しみでした)部屋に戻り、引き続きニューズレターを作成していると、灯油の残量がゼロになって、ストーブが消えました。
部屋の中は一応まだ暖かかったので、そのまま作業を続けていました。
しばらくすると、ブラインドがカタカタと音を立て始め、すぐに大きく揺れ始めました。
お、これは大変!と思い、ニューズレターのデータが消えないように、これでもか!というくらいに「保存」ボタンを連打。
年季の入った講義棟は信用ならないので、万が一に備えてドアを少し開け、手近にあった台車を挟みました。
この台車は、灯油の赤いタンクを乗せて部屋まで運ぶときに使っていたものでした。
しかし、揺れのせいで台車が動いてしまって、あえなくドアは閉まってしまいました。
なにか挟むものはないかと探していると、「ダーン!」という大きな音がして、停電。隣の部屋のフランス人?の先生が、自分の研究室のドアにしがみついて、「オーマイガー!」みたいなことをおっしゃっていたので、「大丈夫ですか!」と声をかけつつ、わたしは、事務所の壁にかけてあった、CIS諸国の駐日大使や代表団がプレゼントしてくださった伝統工芸のお皿を一つずつ丁寧に壁から外して(引き出しの奥深くにしまってあったのを、わたしがその数か月前に、全部引っ張り出してきれいに壁に飾ったのでした)、安全なところに避難させていると、ようやく揺れが収まりました。
火の元を確認し、戸締りをして、部屋を後にしました。
このときのつくば市は震度六弱、壁際にあった大きなキャビネットは、部屋の中央まで移動していました。
職員さんがいる法人棟は数百メートル離れた場所にあるし、わたしは金曜日にしか来ない人だし、事務所のみんなは出張でいないし、こんな状況だから、きっとわたしの存在は忘れられていてるに違いない、とにかく国際部のみなさんがいるところまで行かなくちゃ、と思いました。
非常階段を慎重に下りていると、途中に、女性もののヒールが折れて落ちていました。
木立を抜け、原っぱを歩き、法人棟の前まで来ると、大勢の職員さんたちが建物の外に避難していました。
国際部の職員さんが、とぼとぼとやって来たわたしの姿を見つけてくれ、ようやく一安心。
みんなで法人棟の外で避難している間にも、何度も余震があり、開いている窓からパラパラと書類が降ってきました。
三月半ばのつくばはまだ寒く、職員さんがマイクロバスを法人棟の前に動かしてきてくれ、「女性の方、どうぞ!」と女性職員にマイクロバス内で暖を取らせてくれました。
備蓄庫にあった軍手やカイロが配られて、みな、「みんなでいることの安心感」に包まれていました。停電しているし、ネットの回線が込み合っているため、どこで何が起きたのか、しばらくは分かりませんでした。
わたしは、ついに関東大震災が来たのだと思っていました。つくばにいたから、これくらいで済んだのかな、東京は大変なことになっているんだろうな、と思いました。少しして、どなたかが、震源は東北らしい、とおっしゃり、大変驚きました。
日が傾き始め、帰宅する職員さんが増えてきました。
わたしは、きっとここで夜を明かすことになるんだろうな、と思っていると、ありがたいことに、国際部の女性の上司が、「うちにいらっしゃい」と声をかけてくださいました。
車に乗せていただき、道路を走っているときにはじめて、停電で信号が全部消えてしまっていることに気が付きました。
上司のお宅では、温かく迎えてくださり、暗い中でろうそくを立てて、当時流行っていたタジン鍋をカセットコンロで調理したものをいただきました。
本当によくしていただき、この上司には、今でも心から感謝しています。
夜、上司のご家族と一緒に仏壇のある広い部屋で寝ていると、真夜中にラジオがつき、震災のニュースが聞こえてきました。
ニュースが終わると、ラジオは切れました。
朝、真夜中のラジオの話をすると、だれもラジオには触っていなかったのだそうです。
朝に、上司がわたしにおにぎりなどを持たせようとして、一緒にコンビニを数軒回りましたが、商品棚はどこもからっぽでした。
途中で上司と一緒に大学の災害本部に寄ってみました。
自家発電でテレビが見れ、そこには、濁流にのみ込まれる家屋が映っていました。
どこで何が起こっているのか、まったく分かりませんでした。
3月12日は土曜日で、本来であれば、筑波大学の後期日程の入試当日でした。
上司がつくば駅まで送ってくれ、見ると、バス停にたくさんの人たちが並んでいました。
どうやら、受験生を大学まで送るはずだった大学循環のバスが、行先を変更し、取手や土浦などの近隣の大きな駅まで乗せてくれるようでした。
しばらく列に並んで、取手行のバスに乗れました。当時、わたしは椎間板ヘルニアを患っていて、立っていると激痛で泣きそう、座っていても寝ていても痛い、という状態だったのですが、運よく、席に座ることができました。
橋が落ちているかもしれない、とのことで、狭い住宅街の道をゆっくりと走り、数時間かかって取手駅に着きました。
駅に入ると、ちょうど、都心からの一番列車がホームに入ってきたところでした。電車を乗り継ぎ、地震発生から24時間以上かかって帰宅できました。
実家に帰り、リビングに入ると、テレビで福島の原発の様子が生中継されており、ちょうど建屋が吹き飛んだ瞬間でした。
日曜日は家で過ごし(本来なら、ロシア語の教室の日だったかもしれません)、月曜日はいつも通りに私立大学の図書館に出勤しました。
震災の翌週に、中央アジア事務所のお仕事でルーマニアに出張し、留学フェアに出展する予定でしたが、こんな状況だし、無理しなくてもよい、とのことだったので、お言葉に甘えてキャンセルさせてもらいました。
震災後の中央アジア事務所でのお仕事は、どのようなものだったか、あまり記憶がありません。
CIS諸国からの留学生の大半が、それぞれの国が用意したチャーター便で帰国していきましたが、熱意ある学生数人が、その後また筑波大学に戻ってきて、学位を取得して帰国していきました。
中央アジア事務所のお仕事のうち、よく記憶に残っているのは、カザフ国立大学からの代表団を受け入れて、つくば周辺をご案内したこと、国際会議のために来日した各国の代表をおもてなししたこと、留学フェアに出展するために、ウクライナに出張したことなどです。
留学生たちのことも、記憶にあります。今でもSNSで繋がっている子たちもいます。
留学生のうちの一人は、その後外交官となり、現在は在日ウズベキスタン共和国大使館に勤めています。
わたしは、基本的には週一回金曜日にしか出勤しなかったので、講演会やイベントに向けて準備をするものの、当日は出勤できない、ということが多かったように記憶しています。
大学主催の留学フェアへの参加
その中で、留学フェアでウクライナに出張したのは、震災に次ぐ大きな思い出です。
2012年3月、わたしは初めてお仕事で海外に出張しました。
出張のメンバーは、日本語がご専門の先生と、事務職員さんと、わたしでした。
中央アジア事務所の責任者の先生は、別の出張でウズベキスタンに行っており、キエフで合流する予定になっていました。
キエフまでの道中、出張メンバーの中でロシア語が分かるのは、わたしだけでした。
まず、出発の成田からハプニングが発生しました。
機材の到着の遅れにより、モスクワまでの便が4~5時間ほど遅延しました。そのせいもあって、モスクワに到着してからキエフ行きの便が出発するまでの乗り継ぎ時間がほとんどなく、迎えに来ていた空港の職員さんと一緒にターミナルをダッシュで駆け抜け、どうにか三人ともキエフ行きの便に乗ることができました。
キエフに到着したのは、深夜0時前だったでしょうか。
手荷物が出てくるところで自分たちのスーツケースが出てくるのを待っていましたが、いくら待ってもわたしの分が出てきません。わたしの分だけでなく、日本語の先生の分、事務職員さんの分も出てくることはありませんでした。
どうやら、成田から来た乗客全員の手荷物が、モスクワで乗り換えないまま、乗客だけがキエフに到着してしまったようでした。
空港の職員のところに行き、ロシア語で話しかけると、驚いた顔をされましたが、その後、カウンターに案内され、わたしたち三人のスーツケースがどのような色でどのような大きさであるかを細かく説明し、滞在予定のホテルの住所を渡して、わたしたち三人はリュックサック一つを背負っただけの姿で到着ロビーに降り立ちました。
スーツケースが届かないトラブルで大幅に到着予定時間を過ぎていたので、きっとお迎えの人は諦めて帰ってしまっただろう、どうにかして三人でホテルまで行かなくては、などと思っていると、なんとお迎えの運転手さんが、わたしたちの名前が書かれたボードを手に、じっと待っていてくれました。
三人とも、それはそれは感激し、日本語の先生が、たまたまリュックサックに入れていたキットカットの大箱を、お礼にプレゼントしていました。
運転手さんは、わたしたちがスーツケースを持っていないことに驚いたようでしたが、事情を理解してくれ、大きめのワゴンに人間三人だけを乗せて、夜のキエフを走り、ホテルまで送り届けてくれました。
ホテルに着き、無事に部屋に入って落ち着けたのはいいものの、荷解きをするための荷物もなく、もちろん着替えもなく、翌日からの留学フェアのために持ってきた「筑波大学」と書かれた幟もパンフレットもなく、何もできないので、とりあえずすぐに就寝しました。
翌朝、これまでのいきさつを、ウズベキスタンから合流した先生にお話しし、まあ仕方ないということで、そのまま初日がスタートしました。
留学フェアに出展する日本各地の大学の担当者が部屋に集められ、レクチャーを受けます。
ほかの大学のみなさんは、かっちりとした服装である一方、わたしたちは一張羅の移動着姿。
幟もパンフレットもないまま、どうにかキエフ大学での初日を乗り切り、ホテルに帰ると、わたしたち三人分のスーツケースが無事に届いていました。
二日目は、キエフ工科大学の巨大なホールでのプレゼンテーションです。
本当に豪勢なホールで、まるでコンサート会場のようでした。
筑波大学の出番は、日本語の先生の素晴らしいプレゼンテーションで会場を沸かせ、二日目も無事に終了しました。
滞在中、観光をする時間はなく、ホテルから会場までの移動のバスの中で街並みを眺めただけです。
街の様子は、だいたいロシアと同じ感じでした。
かの有名なキエフ騒乱が起こる二年前の、平和なキエフ。
この翌日にキエフを後にしました。三泊の短い滞在でした。
大学でロシア語を使った仕事に就くには
今回も、最後に、どのようにしたら大学でロシア語を使ったお仕事をすることができるかを書いてみたいと思います。
職員に関しては、ロシアと密接な交流のある大学では、大学の運営上、先生方のほかに、ロシア語のできる事務職員を必要としているはずです。
ただ、一般に募集しているケースは少ないかもしれません。
大学院を修了した、いわゆるポスドクのポストになっていることが多いように思います。
大学図書館でのお仕事も、ロシア語の書籍を多く購入している大学では、ロシア語の分かる職員が必ず必要になっているはずです。
空きが出ない限り、募集はないと考えてよいでしょう。
わたしのように、先輩からの「お下がり」をもらうケースが多いかもしれません。
いずれにしても、学生にとって一番身近な大学内にも、ロシア語を活かせる職場があるのです。灯台下暗し、ですね。
以上、今回は大学のお仕事について書いてみました。
次回もどうぞお楽しみに。
(文/福田知代/ロシア語講師、翻訳家、通訳、YouTuber)
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