2023.09.04

ロシアで役者・監督として活躍する木下順介さんインタビュー
「ロシアと日本は違うからこそ良いんだと思います」

Today's Guest

木下順介

香川県高松市出身。日本で役者、監督、占い師などとして活躍した後、2010年に訪ロ。芸術の国ロシアの名門・全ロシア映画大学で映画編集を学ぶ。卒業後もロシアを拠点に活動し、現在までに、数多くの映画やドラマなどに役者として出演しながら、監督としても作品を輩出している。

日本・ロシアに縁をもつ「人」にスポットを当て、その「人」を紹介、そして「人」を通じて、ロシアの魅力や日本とロシアの関わりなどを、車でドライブするような冒険心を持って発信していく「日ロドライブ」。

 

第39回のゲストは、ロシアで役者、監督として活躍されている木下順介さんです。

 

木下さんは香川県高松市出身。2010年に訪ロし、現在までモスクワに在住されています。
2008年公開の映画初監督作品「Happy Looser マスカケ線」は、第42回モスクワ日本映画祭でも上映されています。
役者、監督としての顔のほかに、占術家としての一面も持つ木下さん。2004年には、モスクワで風水講演会を開き、大きな反響を得ています。

今回は、そんな木下さんから、役者・監督を志したきっかけやロシアおよびロシアから見る日本への思いなど、たくさんお聞きしました。

 

--今日はよろしくお願いします!まずは簡単に木下さんの自己紹介をお願いしてもよろしいですか?

私は、2010年4月からロシアに住み始めました。ロシアに住み始めた当初は、何をするか、あまり深くは考えてなくて、ビザのことも何もわかってませんでした。

「ロシアに部屋が空いてるので、住みませんか?」と言われて、軽い気持ちで住み始めたというの がきっかけです。

特に志や何かがあったわけではありません。
ですから、最初はロシア語も全くできませんでした。

私は、日本にいた頃から、ずっと役者の仕事を続けていて、途中で占いなどもやったりしながら、うまく芸能界の波に乗りながら生活してきた人間です。

 

--ずっと芸能の道を歩まれてきたんですね!監督のお仕事はいつから始められたんですか?

昔から脚本は書いてましたが、自分にはとてもじゃないが監督はできないと思ってましたし、当初は選択肢にありませんでした。

けど、日本でたまたま、短編映画の監督やクリップの監督を頼まれたりして、監督の仕事って、やってみるとものすごく面白いなと思ったんです。

そこで、ロシアに住むのが決まってから、せっかくロシアにいるのであれば、大学で本格的にロシアの映画編集の技術を学んでみたいと思いました。

監督っていうのは、編集から逆算して考える部分もないといけませんから、日本で監督という仕事に関わる様になってから、編集を理論立ててきちんと学びたいと強く思っていたんです。

そういう訳で、全ロシア映画大学に入学して、編集を専攻しました。タルコフスキー、ミハルコフをはじめ、ロシアのほとんどの有名映画監督や関係者が同大学を卒業しています。

全ロシア映画大学に通ったことで、映画理論や撮影技法も大きく進歩しましたが、ロシアの映像業界にかけがえの無い素晴らしい人間関係がたくさん出来たのも嬉しい事でした。

在学中、「ちょっと東洋人の役でこういうのがあるんだけど、出てくれないか」とか、大学の先生から「うちの学生が安部公房の劇をやるから、日本人として出て欲しいんだけど」とかいうのを引き受けているうちに、日本人の役者・ 監督としての自分がロシアの業界で少しずつ知られるようになったんです。
それが卒業後いろいろな仕事に繋がっていくわけです。

そういう流れの中で、役者としてオーディションの案内をもらって、いろいろオーディション受けながら、いつの間にかどんどん実績が積み重ねていったって感じですかね。

(写真:木下順介さん)

 

--木下さんの役者・監督としてのキャリアは、日本と同じくロシアでも自然に培われていったといっても過言ではないでしょうか?

今から考えればそうですね。

ロシアの大学で、外国人は基本的にロシア語の予備科というところに通わなければなりません。
そこで半年間くらいロシア語を学んでから専門の学科に進みます。

しかし、受験の時に面接した方、後に私の編集の師匠であり大恩人となるタプコワ先生という方なのですが、先生が古今東西世界で最も愛してる俳優が三船敏郎さんで、編集で最も参考にしてるのが黒澤明監督の映画だという、素晴らしき日本映画を通じた縁がありました。

しかも、私が日本で初めて監督して、ロシアでも上映された短編映画の主演が根岸季衣さんで、根岸さんは黒澤明監督の映画にも何本かメインキャストとして出演されていいます。

受験の時に提出していたその作品を観たタプコワ先生が、これは映画的にすごい縁だと感じてくれて、ロシア語を学ぶ予備科に行かず、いきなり普通に学科に迎え入れてもらえることになったんです。
根岸季衣さんや黒澤明監督、三船敏郎さんに感謝です。

 

--編集について学びたくてロシアに行ったわけではなく、結果学んだというか、何か一般的にあるような海外移住や留学とは逆のパターンなんですね。

はい、移住の動機が先にあるのではなく、私の場合は全く逆。
よく考えると、私の人生は大概、行動の決断が先で、その動機が後付けです(笑)

私は占いもやってますから、何かあったら星回りを自分でチェックするわけです。
だから、2009年くらいに、海外に関係する大きな事象が自分の身に訪れるな、とは知っていました。
しかし、実際、当時は海外と接点ないし、何も見当たらないなとも思ってたんです。

そしたら急に「ロシアに住まないか」という話が来たんで、「じゃあ住むか」という。そんな感じで、即断即決してから、占星術って当たってるなあ、とか感動していました。

毎年、日本の国際交流基金という団体が開催してる日本映画祭というのがあるんです。
モスクワでもやってるんですけど、2008年、モスクワの第42回の日本映画祭にたまたま私が初めて撮ったその短編映画が上映されたんです。

ただ、この映画祭は実際のところ、監督はそこで自分の映画が上映されてることも、知らなかったりするくらいなんです。
上映作品の中には古い映画もありますしね。

でも、私としては、モスクワで上映されるんだったら、初めて自分で撮ったものだし、現地に行ってみようと思ったんです。
そうしたら、モスクワの国際交流基金の方がトークショーをはじめ、いろいろなイベントを作ってくれて。
そこで、映画を通じていろんなロシア人と会って話をしたり、質疑応答をしたんですが、ロシアに対する印象が凄く良かったんですね。

だから、「ロシアに住みませんか」って話があったときも、すぐに「行きます」ってことで。

 

--まさに即断即決ですね(笑)ぜひ、日本にいらっしゃるときに、役者や監督の道を志した理由についても教えてください!

私は高校生の頃、ずっと野球をやってました。
私は野球少年でしたから、小学生の時から野球しかやってないような青春時代でした。

小学校、中学校と野球をやって、高校は香川県の高松高校野球部に入りました。
高松高校は県下一の進学校なんですが、野球部だけは、なぜか伝統的に特別なんですよね。

普通の生徒は、試験期間じゃなくても、1日何時間も勉強してるような高校です。
でも、当時、野球部だけは全く関係なくて、修学旅行や遠足も行かないし、学園祭や体育祭、クラスマッチも野球の練習優先で参加がままならず、高校生活イコール野球部での時間でした。

だから私はびっくりしましたよ。
なんじゃこりゃと思って。
聞いてる話と違うじゃないか、これは野球学校じゃねえかと(笑)

だから家で勉強なんて全然しなかったんです。
そんなだから授業にもついていけません。
これがね、例えば、違う高校だったら全く問題なかったと思うんですけど、もう本当に、数学とかね、もう難しすぎて、1年生の1学期の期末試験の時にはもう7点とか8点とかしか取れないという、、、100点満点で(笑)

しかも、勉強してる生徒でも、試験はかなり難しいのに、全く違う世界で生きてる野球部の私たちがついていけるわけありませんでした。

授業についていけないから、授業中も寝てるだけです。
しかも、繁華街のど真ん中に学校があるもんだからこっそり抜け出して、普通に、商店街にお好み焼きを食べに行ったりしていました。

当時は「ふみや」によく通っていて、今でも高松に帰省した時には絶対に「ふみや」さんには行きます。

そういう毎日の中で、「昼からどうせ体育だし、もうだるいから、映画でも見ようかな」と思って、抜け出して観た映画が「蒲田行進曲」です。

そしたらね、これが本当に面白くて。
こんな世界もあるんだっていう。「役者になりたい」って、そこで思ったんですよね。
こういう世界で生きたいと思ったんです。

当時は田舎の高校の少年ですから、映画に何があって、どうやってできているかなんて全然わからな かったんです。単純に頭の中で映画=役者っていうふうになっちゃったんだと思います。

今から考えたら、「そういう世界(映画界)で生きていきたい」ということだったろうと思うんですけど、当時は映画といえば目に見えてる役者という存在しか知らなかったわけです。

それで、私は役者になりたいと思って。これが私の役者人生のルーツです。

しかし、当時はどうやってなったらいいかわかんなかったですね。
ネットも何もない時代じゃないですか。
だから想像もつかなかったです。

それと高校の授業中は授業が、まるで分からず暇だから、ずっと本読んでたんです。
当時の読書量は半端ないですよ。

終わったら、すぐに野球の練習です。
練習終わって家に帰ったら、9時半とか過ぎてました。朝練で素振りして、授業中は本読んで、昼休みも素振りして、授業中お腹減ったら抜け出してお好み焼き食べたり映画観たりして、放課後は野球の練習、というのを3年生の夏まで繰り返しました。

同級生が、入学時に20人以上野球部に入ったんですが、結局最後は8人しか残りませんでした。
私達の代になってから、私はキャプテンでした。
3年生の夏の大会も予選で負けて甲子園にも出場出来ず、部室から荷物を引き上げてから、野球部の同期のみんなでマクドナルドに寄って話した時、「一体、俺たち3年間何やってたんだろうな」と(笑) 。

修学旅行も行ってない、学園祭の思い出もない、しかし結果は甲子園にも出れなかった、何にもやってないぞ、結局何が残ったんだよって話になったわけです。

野球も終わった3年生の夏休み、商店街をフラフラ歩いていたら、その年に甲子園に行った高松商業の野球部員たちが、同じマクドナルドにたまたま居て、「英語の補習をしてるから、勉強を教えてくれ」と言ってきたんです。

で、見てみると簡単なんですよ。
でも、私らはそれすらもわからないんですよ。
彼らの方が勉強してるんです。
「お前ら、進学校なのに、こんなのもわからないのか」って言われて。
その時、高松高校野球部の実情を彼らに説明しながら、「俺ら、なんかちょっと違う生き方をしたいな」ってなったんですね。

そこでみんなでいろいろ話してて、私は「俺はやっぱ役者になりたいな」みたいな話をして、みんなも 「それはいいな」って言うみたいな。そんな感じでした。

「蒲田行進曲」だけでなく、高校時代にはいろんな映画からも影響を受けてます。

宮本輝さんの同名小説を原作にした「泥の川」っていう映画があるんですけど、テレビでたまたま観たときに、これがまた素晴らしくて、こういう世界もあるんだなと思って。

あと、倫理社会の先生が、「志村喬さんという名優が先週亡くなった。それで今日の夜、『生きる』という映画がテレビで放送される。みんな観たらいいよ」っていう話を授業中にしていて、実際に観ると、これもすごいなと。

今から考えたらね、私がすごいなって思ったのは結局、役者というよりも、「こういうのを作りたい」とか「こういう雰囲気を表現したい」ってことだから、本当は最初から監督でも良かったのかもしれませんね。

高松でそんな高校生活を過ごした後、卒業後は当時の自分の成績で入学できた体育大学に進学しました。

 

--高校卒業後から本格的に映画の世界に足を踏み入れようと決意なさっていたんですね。ちなみに、一番最初にロシアに触れた瞬間などは覚えてらっしゃいますか?

大学卒業後、すぐの頃ですかね。
まだソ連の時代です。
高校時代、同じ野球部でレフトを守ってた同級生が大学を卒業して、香川県の百十四銀行に勤めてたんです。
その彼が、とある研修に参加して、ウラジオストクに行ったんですね。

その後、彼がいろいろとウラジオストクの話をしてくれるんです。
ホテルの階の全部におばあさんがいて、そこで鍵を渡されて、部屋内をチェックされてたっていう話とか。
それが私がロシアを初めてリアルに感じた瞬間ですね。

 

--友人から聞いたリアルな話が、最初にロシアに触れたきっかけだったんですね!

はい、そうです。
それで、直接のロシアとの関係は、姪っ子がピアノの才能がきっかけで、モスクワに行くことになったことから始まります。

当時高松に、日本とロシアを行き来しながら、音楽交流をしていたピアノの先生がいたんです。
そのピアノの先生のところに、私の姪っ子が習い事の一環でたまたま通うようになって。

そこで、モスクワから呼ばれた先生のレッスンの時、「ちょっとこれは、もうすごい才能だ。モスクワで学ばないか」ということになって、モスクワの音楽学校に来ないかと誘われたらしいのです。

当時私は占星術をバリバリにやってた時代で、細かくみるとこれが本当に良い結果だったので、「ロシアで学ぶのはいいと思うよ。きっと成功できるよ」と後押ししました。

2000年代初頭、姪っ子がまだ6歳の頃の話です。
そこから彼女はグネーシン音楽院に通い始めて、そのまま順調に才能が開花して、今は日本でもたくさんコンサートを行っています。
姪っ子の名前は松田華音と言います。

 

--日本全国でコンサートを開いてる、すごい有名人じゃないですか!?びっくりしました!木下さんの姪っ子さんだったんですね!

そうなんです。
それで、華音や甥っ子、保護者である私の妹がモスクワにいるんだったら、旅行でも行こうかっていうんで、2004年の6月に初めてモスクワに行きました。

当時はびっくりしましたよ。「モスクワはこんなに田舎か」と思いましたもん。
シュレメチボ国際空港からモスクワ市内まで車で行くんですけど、その道中が初めてなのに、なんだか前に来たことある様な空気と言いますか、懐かしい気持ちになったんです。

それで、モスクワっていいなと思ったのを覚えてます。
今は撤退しちゃいましたが、車中から「IKEA」の大看板が見えたのも印象に残っています。

旅行中、モスクワで1人でフラフラ散歩してる時も、6月で空気が乾いてるし、日は長いし、思ったよりも意外と素朴な感じで、まるで言葉も喋れないのに差別もされず、道を教えてくれるし、とても居心地が良かったです。

だから、野球部の同級生から聞いたウラジオストクの怪しい話とはちょっと違うな、みたいな。

ただ、夜になると当時はノーヴィー・アルバート通りとかも電気は消えてて、暗い感じでした。
夜は1人で歩かないでください、と現地の人にも言われたくらいで、まだ今のように大発展したモスクワではありませんでした。

モスクワの中心のアルバート通りを野良犬も群れて走っていてびっくりもしましたよ。
当時と比べると、昨今の近代化されたモスクワは違う国にいる様な感じです。

その後、2006年にモスクワのミルビス日本センターでの風水の講演会や、2008年の日本映画祭での監督作品上映とか、私の中でロシアやロシア人はとても良い印象になっていきました。

そして冒頭で述べましたように、2010年4月12日からロシアに住むようになリました。
本当の意味でロシアというものに触れたり、本質的にロシア人と接したりというのは、そこからですね。
それまでは、あくまでもお客さんとしてのロシアの印象だったわけです。

 

--木下さんが触れたロシアの本質的な部分というと、例えばどんなところでしょうか?

まあ、例えば、俳優さんにしても、ロシアはあまり大袈裟な自己宣伝をしないんです。

俳優さんがどれだけ上手に自己宣伝しようとも、仕事は毎回オーディションを経なければなりませんから、宣伝文句があんまり意味を成さないんです。

宣伝を過剰にしようがしまいが、オーデイションで役に合ってるかどうか、役に見合う実力があるかどうか、だけが目前の作品の配役の判断基準ですから、事前に何を言おうがあんまり関係ないんです。

むしろ、ロシアでは過剰宣伝されているものは怪しいって言われて敬遠されます。

そういうのがね、ロシア人は常にどこか頭の中にありますから。日本人の感覚だと、ここがなかなか伝わりません。

日本人っていうのは、本当にね、私もロシアに来てわかりましたけど、「成功教」、「自己啓発教」という過剰競争社会独特の宗教に頭をやられちゃってるんです。

「成功したい病」という中毒ですよ。だから、宣伝すればするほど物が売れると思い込んでますし、そのための宣伝方法として不安を煽れば良いみたいな、、、、。

ですから、本質がどうのこうのではなく、人の注目を引くキャッチーな外側のパッケージに重きを置くような商売になりがちです。

昨今のマスコミの偏向報道もあって、「ロシアは怖い」「ロシアは騙す」「ロシアはプロパガンダで支配する」っていうイメージを持つ日本人の方もいるかと思いますが、マスコミの煽り宣伝や、仕事の宣伝の詐欺紛いの過剰なパッケージング、膨らまし過ぎのプロフィール、という意味で言ったら日本の方が何百倍もロシアより酷いです。

嘘も日本人の方が狡猾で巧妙です。「勝てば官軍」「言ったもん勝ち」な、生き馬の目をぬく日本の芸能界で長くやってきましたから、その辺の感覚が麻痺してて、かなりの中毒症状だったことにロシアで生活して気付かされました。

それと、ロシアは役者や監督は、日本で言われる有名人とか芸能人とかいう曖昧な位置付けではなく「専門教育を受けた芸術家として世間から尊敬されている」という存在だった事にも目から鱗でした。

役者や監督を取り巻く環境が、日本とは全く違いました。

同じ仕事でも国によっていろんな状況があるんですよね。
日本の芸能界のように、功績を膨らましたり、誇大広告して自分を誇示していく生き方もあるだろうし、ロシアのように芸術家として自分に向き合い、コツコツお金を稼いでいく生き方もあると思います。

社会に出たら、自分の職業を通して生きるわけですから、どういうメンタリテイでお金を稼ぐかっていうのはものすごく大事なんですよ。
だからやっぱり人として、どう生きるかっていうのが一番大事なことだなあと改めて感じました。

特に私らは表に出る仕事なんで、どんだけ役者で、「いい人」の役を演じても、悪いやつからは やっぱり悪さが出ますからね。

それは監督をしててもそうなんです。
監督は表には顔が見えないですけど、本当に狡猾なやつは、撮ったものも狡猾なんです。

それと、本題からはそれますが、私自身、もう40年近くこの世界で生きてきてわかったことは、結局正直にコツコツやってる人しか残ってないんだなあ、と。
これは本当です。

若いころはこれの答えが分からなかったというか、そういう生き方に確信が持てなかった。
だからこそ、これは若い人に伝えたいんですが、目に見えない積み重ねっていうのは、必ず結実すると信じて欲しい。

ライバルが先に何かを掴んだりしたら、自分は何やってんだろうって、みんな思うんですよね。
それで道を諦めたりとか、先を越された自分の生き方が間違ってるんじゃないかと思って悲しんだりすることもあると思うんですけど、実はそうじゃなくて。
積み重ねは必ず時間を経て、形になることがわかりました。

私は今年58歳ですが、近い年齢の先輩や後輩で未だにこの業界の現場で食えてる人達は、どの人も全員「きちんと真面目に積み重ねてきた人」です。

 

--積み重ねは大事ですよね。次に、現在のロシアを巡る情勢について、ぜひ木下さんが感じてらっしゃる思いを聞かせていただけたらと思います。

まず言いたいのは、ロシアに関して日本で報道されてることは間違っているということです。
特に日本の大手メディア、大手新聞社、テレビに出てる専門家と言われてる人の言ってることは笑うしかないくらいに偏向報道です。

まずね、日本人の方々は、なんでマスコミがロシアに関して、そういう報道をするかを考えてほしいと思います。

しかし、ロシアはそうした日本の姿勢に対して、特に何も言わないですよね。

それを見た時すごいなと思ったのは、「噂とか変な悪評とかをロシアはほぼほぼ関係ないとして惑わされないし、気にしないこと」です。すべての施策が、「国益と国民を守ること」に帰一している一貫性を政治の中で実現出来ているロシアの政治力に深く唸りました。

要するに、何を言われようが、大事なのは国を守り国土を守ること。

ロシアは今、国民の利益を守ること、国土を守る事、要するに国益を守ること、これに徹することができているんです。
これは僕ね、すごいなと思います。

言われの無い世界の噂や評判に目が向いてないし、それに一切ぶれない。

だから、どんな悪評やデマ、偏向報道を西側諸国から流されようとも、関係ないんです。

そんな情報による揺動作戦を世界で展開されようとも、そういう本質以外の煙のような何かに惑わされるのではなく、国土と国民を守り、内需を拡大し発展させるためにどう戦うか、ということにフォーカス出来る強さ。これが国としてロシアにはあるんです。

これは政治だけではなく、国民性という個人にも同じことが言えます。
これはロシアの最大の特徴だと思います。

残念ながら、これは日本にはありません。
日本というのは世間体(外)を過剰に気にする国民性ですからね。外の世間体を過剰に重視する、これが日本なんですよ。

例えばコロナワクチンもね、周りがみんな打ってるから、打たないといけないって言って、みんな打つんです。

例えば、ロシアに関しては、モスクワの地下鉄に乗ったら、若いカップルとかが、よくいちゃついています。
今、彼にとって一番大事なのは彼女です。今、彼女にとって一番大事なのは彼氏です。赤の他人の周囲の目に惑わされることなく、彼らは2人の時間を最優先してるわけです。
その様な感じで周囲の人もいちゃついてる若いカップルに興味ないですし、カップルは知らない人にどう思われようと関係ありません。

反面、単に他人に興味ないから人間が冷たいわけじゃなく、見ず知らずでも隣の誰かが倒れたらすぐに助けますし、メトロでも目の前に女性が立っただけで、男性はすぐに立って席を譲ります。
まるで無意識の反射神経のようにサッと立ちます。

女性がスーツケースを階段で運んでたり、ベビーカーを押すお母さんが階段に差し掛かったりしたら、近くにいる男性は当たり前のようにすぐにそれを手伝います。

日本ではあまりそういうことはありませんよね。
だからね、日本人とロシア人は根本的にはやっぱり理解し合うのに時間がかかると思いますよ。

よく日本人の駐在員さんが離任の挨拶とかで、「ロシア人と日本人はとてもよく似てる国民だ」とかドヤ顔で言うのを時々聞きます。

けど、私はね、実は全く違うと思っています。
違ってるからこそ良いんです。

ロシアが今後発展していくために、日本から取り入れた方がいいことは山ほどあります。逆に、日本人のメンタリティの中にロシア人のあれやこれやをうまい具合に取り入れたら、相当楽になるなんてことも山ほどあるわけです。

違うからこそ、いいんですよ。だから同じになる必要はないと思います。
違うからこそ、お互いを認め合うということが大事ですし、そこに尊敬が生まれるんです。

だから、日本にいて、ロシアのネタを見つけて、案内していくっていうことも、すごくいいことだと思ってます。日本ではロシアに触れる機会がそもそも少ないですから、ロシアに少しでも興味を持ってもらうのは、すごく貴重なことだと思うんです。

ロシアは日本においてはまだまだマイナーコンテンツです。
だから、ロシアに関係するメディアも、もっときちんと正確な情報を仕入れて正しく伝えていけば、日ロ関係ももっと良くなるんじゃないかと、私は思ってます。 今、大切なのは民間の外交です。

 

--ありがとうございます。日ロドライブももっと取材や情報収集の幅を広げていきたいと思います。最後の質問になるんですが、木下さんの今後のビジョンについて教えてください!

2020年くらいにコロナでモスクワの街がロックダウンして、当時、街から人がいなくなりました。
役者の現場も一旦は3ヶ月くらいゼロになりました。

夏くらいから回復し始めて普通に戻りました。
その後、昨年2月からの特別軍事作戦で、再び大きく転換し、新たな形になりつつあります。
現場の数も一旦は少し減ったような状況にありましたが、コロナ以降台頭したネット配信のプラットフォームも作品を製作する様になり、ロシア映像業界の逞しさを感じています。

私はコロナ明けの2020年の夏以降、来るオーデイションは全て受け、どんな作品も断らずに全部やってみたんです。
そうしたら、これから放映される待機作品が常に8本とか10本とか、という様な状況になりました。

まあ、その中には、少し前ならやらなかった様なミュージッククリップとかもあります。

たまたま出演したミュージッククリップは再生数が1500万回です。
それはロシアで超有名なグループなこともあって、カフェの店員さんとかに「あのミュージッククリップに出てましたよね」って、時々声をかけられます。

今年は、逆にそういうのをやめて、仕事をきちんと選んでみたらどうなるか、を実験してみました。

この夏はロシアの広大な自然の中で撮影した「СТЕПНЫЕ БОГИ(草原の神々)」という作品でロシア人の少年と共に主役の日本人捕虜を演じています。
草原での人間模様が作品の流れですが、根底にはアメリカの核への強烈な抗議が込められています。
2024年、日本でも上映出来ると嬉しいですね。

自分が監督の作品については、所謂ネットフリックスのようなプラットフォーム形式のものがロシアでもすごく増えているので、そことの企画立案による連続ドラマの作品創りや、原作を元にした映画の企画など、常に数本抱えて動いています。

そういう監督や役者としての活動と、自分で会社を作って製作者としての側面も発展させていきたいと画策しています。日本でいう製作会社ですね。
この製作会社をここ3年ぐらいで、何とか軌道に乗せてロシアで確立させたいなと思ってます。

製作会社を回転させていくのは何かと大変なんですけど、やっぱり挑戦していかないと、と思っています。
1人の監督、1人の役者としてはここまでしっかりとやってきました。
そういう実績の中で国際映画祭の審査員にも何度か呼ばれてますし、十分にやれてると言えばやれてるんですが、でもね、やっぱりもう1ステップ、2ステップ上を目指したいですね。
せっかく海外でやってますし、どこまでも挑戦し続ける人生を送りたいと思っています。

それと、私自身は、もう日本で有名とかどうとかになりたいと思っていません。
日本ではもうどうでも良い感じです。

ただ、今、頑張ってる日本人の若者がロシアには何人かいるんです。
私は運良く軌道に乗ってますが、彼らはこれからなので大変です。
これから頑張って軌道に乗っていかなきゃならない。
私がプロの先輩として見てて、彼らはロシアで勝ち抜くメンタリティも、まだ確固たるものが出来上がってるわけじゃない。
しかし、まずはロシアで頑張って素敵な実績を積んで、日本でも活躍して欲しいと願っています。

実はコロナ禍や特別軍事作戦の後に、そういうロシアで学び活躍したいという意欲のある日本人の若者が増えてるんです。

日本でも大学や私塾でロシア語学習者が増えてるそうです。意外ですよね。

日本の経済制裁の諸々でロシアでの生活が不便になり、泣く泣くロシアから帰国した人もいますが、そういう時こそロシアに来て学ぼうとする人もいて、ロシアにいる私の勇気にもなっています。

今頑張ってる彼らやこれからロシアで映画や演劇を学びたいという人々のためにもね、しっかりとした盤石な基盤をモスクワに作りたいですし、製作会社をロシアで軌道に乗せて、10年間ぐらいはその製作会社を中心に活動して、作品を作っていければいいですね。

作品を作る、映画を作るということにおいては、ロシアは日本の何倍も進んでいます。
これは現場の技術も撮影自体の労働システムも、ロシアと日本では格段の差があります。

スタッフや俳優さんになりたい人のための歴史ある素晴らしい育成システムもロシアにはあります。

ロシア人ならそういう大学の4年間の授業料はほぼほぼ無料です。
プロの撮影現場の労働環境もきちんと整備されてますから、そういう素晴らしい育成システムでで学んだ10年後20年後を支える若い人材が、現場でどんどん育っていきます。

若手のスタッフ不足が深刻な日本とは雲泥の差です。
日本の映画界も将来を憂うならば、まずは撮影現場の環境整備からだと強く感じています。

 

--ありがとうございます!製作会社とても面白そうですね!木下さんのこれからがとても楽しみです!

 

 

役者・映画監督の木下順介さんの情報はこちらから

オフィシャルwebサイト:http://junsukekinoshita.com/
Facebook:https://www.facebook.com/junsuke.kinoshita
X(旧Twitter):https://twitter.com/junsuke1012kino

 

 

 

(インタビュアー/山地ひであき)

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