2022.12.20

(株)LikePayのイーゴリ・ヴォロシオフ代表取締役インタビュー(前編)
「モスクワ大学時代の日本人との交流が来日のきっかけです」

Today's Guest

イーゴリ・ヴォロシオフさん

ロシア・ブリャンスク出身。起業家。(株)LikePayのCEO。モスクワ大学卒業後、東京大学大学院へ。修士2年で、LikePayを起業する。現在はノーコードサービス「Webflow」の日本語版サービスの立ち上げやスクールを運営しているほか、「Webflow」の普及のための情報発信にも力を入れている。

日本・ロシアに縁をもつ「人」にスポットを当て、その「人」を紹介、そして「人」を通じて、 ロシアの魅力や日本とロシアの関わりなどを、車でドライブするような冒険心を持って発信していく「日ロドライブ」

 

第36回のゲストは、LikePayの代表取締役であるイーゴリ・ヴォロシオフさんです

 

LikePayはノーコード・プログラミングツール「Webflow」の使い方を教えるアカデミーを開講 しているほか、同ツールを使ったWebサイトの制作などを請け負っているIT企業。

ロシア・ブリャンスク出身のヴォロシオフさんは2018年に同社を起業して、現在は、Webflowの日本での普及を目的とした各種情報発信にも力を入れています。

 

今回はそんなヴォロシオフさんへのインタビューを前編後編の二回に分けてお届けします。
前編となる今回は、ヴォロシオフさんが日本に関心をもったきっかけや起業することになったきっかけについてです。

目次

来日前の生活について

--今日はよろしくお願いします。まずは、ヴォロシオフさんが来日する前のお話から聞いてもいいですか?

こちらこそよろしくお願いします。
私は、ロシアのブリャンスクという街の出身です。この街はモスクワから500キロくらい南西にあります。ロシア基準では少しの距離ですね(笑)

私のお父さんはロシア空軍に所属していて、近くの基地で勤務していました。
その後は、南のタガンログという、アゾフ海にある街に引っ越しました。
中学生のときに兄がサンクトペテルブルグの大学に進学して、その2年後には家族でサンクトペテルブルクに引っ越すことになりました。
そのため、高校時代の3年間はサンクトペテルブルクに住みました。

 

--ロシアで何度か引っ越しされたんですね!引っ越し先での高校はどのようにして選びましたか?

進学先の高校は、いろいろと探していたんですが、兄の大学の近くに、英語やその他の外国語を中心に勉強する学校があったんです。

お母さんからその学校への入学を勧められて、結局その学校に入ることになりました。
入学当初は、英語のレベルが結構高いと感じていたんですが、少しずつ追いついて、楽しくなりました。

(写真:イーゴリ・ヴォロシオフさん)

 

高校卒業後入学したモスクワ大学で日本語を学ぶ

--高校卒業後はモスクワ大学に進学されたんですよね!

高校3年生になって、どの大学に進学するか考えたときに、英語でいろいろと調べました。
本当は海外の大学に進学したかったんですが、英語力が足りず、ロシア国内の大学への進学も検討していました。

ある時、お母さんからモスクワの大学への進学を勧められ、モスクワ国際関係大学とモスクワ大学を受験しました。
経済学部に行きたかったんですが、得意なはずの数学の点数が思ったよりも低く、グローバル学部という、主に国際関係を学ぶ学部に入学しました。

国際関係を専攻するグローバル学部では、本当にたくさんの分野を勉強することになりましたね。
経済、歴史、外国語、政治、国際関係、外交関係を勉強して、授業数も多かったです。
学生たちはみんな英語のほか、第2外国語を勉強する必要がありました。

ほとんどの同級生は、フランス語、ドイツ語、スペイン語といったヨーロッパの言語を選んでいました。
これらは英語に近いところがあって、わりと簡単です。
しかし、9割の学生がそのような選択をしていたこともあり、私はもっとチャレンジングな言語を選びたくて、アジア圏の言語に挑戦しようと考えました。

当時、アジア圏の言語の選択肢には、中国語とアラビア語しかなかったんですが、同級生の中に日本のことがとても好きな生徒がいて、「日本語を勉強しよう!」と言い出したんです。

そこから、「日本語のグループを作りたい」という話が、いろいろな学生のもとにくることになりました。
結局10人くらいの学生が興味を持ったので、日本語学習について、みんなでサインして、学部に提出したところ、学校側が先生を見つけてくれることになり、日本語クラスができました。

 

大学時代に日露学生フォーラムに参加

--学生たちの力で日本語クラスができたんですね!すごいです!ヴォロシオフさんも、その日本語クラスで日本語を学び始めたんですか?

大学一年生の二学期から、日本語クラスは始まりましたが、実は私は、それ以前から日本語を勉強していたんです。

きっかけは「日露学生フォーラム」です。
当時、私は、学生同士で交流やイベントのようなアクティビティを行う団体に所属していて、一学期後半に「日露学生フォーラム」というイベントがモスクワ大学で開催されることを知り、それに参加することにしたんです。2012年12月のことです。

当時は、もちろん日本語が全然話せない、全く勉強もしていない状態なので、英語でコミュニケーションをとったほか、ちょっとしたプレゼンをしたり、みんなでバスケをしたりしました。

こういった交流は、私にとって今までになかった経験で、とても楽しくて、日本語を勉強したいというモチベーションが高まったんです。

彼らが帰った次の日には、自分で日本語の教科書を買って、勉強を始めました。
そのため、二学期に日本語の授業が始まったときは、割と学習が進んでいる状態でした。

2013年に東北大学で開催された「日露学生フォーラム」にも応募して、これにも参加しました。
これが私にとって初めての来日です。

まずは東京で、いろいろと観光しました。とても面白かったです。ロシアとは街並みも街の表記も全然違うし、本当に感動しました。別の世界に来たみたいに感じましたね。

来る前も来てからも、ずっとワクワクしていました。
当時、ロシア国外に行ったのは、日本が2か国目でした。日本の前に、チェコに行ったことがありましたが、チェコはロシアと近いので、面白かったとはいえ、そこまでロシアとの違いはありませんでした。しかし、日本はロシアとの違いだらけで、とても面白かったです。

日本への滞在は1週間くらいでしたが、たくさん交流して、いろいろなことを見て、すごく楽しかったので、日本語の勉強意欲も高まって、より勉強に打ち込むようになりました。

当時のモスクワ大学の学長は日本との関係構築に力を入れており、多くの日本人学生をロシアに招待するなどしていて、2014年の春には約100人の学生を招待したこともありました。
彼らは約1週間モスクワ大学に滞在して、様々な交流を実施しました。
私自身もボランティアとして色々とお手伝いする中で、たくさんの学生らと交流できて、楽しかったです。

 

上智大学への交換留学を経て、東京大学大学院へ

--イーゴリさんは、モスクワ大学の学生時代から積極的に日本との交流を続けていらっしゃっ たんですね!

2015年には上智大学に留学しました。
半年間、上智大学に交換留学して、本当に楽しかったですね。
毎日受ける日本語の授業の出席者は全員外国人なので、全世界から集まってきた学生たちと交流できて面白かったですし、バーテンダーのバイトもやりました。
部活はヨット部に入って、毎週金曜日の夜には江ノ島に行って、土日は全部練習という生活をしていました。本当に楽しかったです。

そういった経緯もあって、大学院も「日本の大学がいいかな」と思っていました。
本当は上智大学の大学院に行きたかったんです。
しかし、上智大学の大学院に入学するとなると奨学金がないと難しく、大使館の奨学金には二回応募して、二回とも落ちてしまって。
結局、三回目は直接大学に応募することにしました。
私が勉強したかったのは、サステナビリティ学という分野で、モスクワ大学の卒論もそのテーマで書いています。

東京大学には、サステナビリティ学に関するプログラムがあり、文部科学省の奨学金もあったので、そこに応募することにしました。
その結果、2017年の秋に東京大学の大学院に入学することができました。
そこからはずっと日本に住んでいます。

 

日本に対するイメージについて

--日本人との交流から、日本への関心を深めていったとのことですが、ヴォロシオフさんは日本にどういうイメージを抱いていますか?

日本という存在や日本の文化といったものは、割と世界中に広がっているので、日本語を学ぼうと思う前から、日本に関するちょっとした知識はありました。
特に寿司はロシアでも流行っていますし、私自身、たまに家族で食べに行ったりもしていました。

私自身が持っていた日本のイメージは二つあって、一つは侍や京都の街並みのような伝統的なイメージ。もう一つはロボットのような近未来的なイメージです。

そういった相反するイメージを持つミステリアスな国という印象が日本にはありましたね。

それと、映画などで流れる日本の歌を聴いて、日本語のことを「言語として綺麗だな」とも思っていました。
私が聴いていたのは割と古い音楽でしたが、言葉の流れがすごく綺麗だと思います。

それらの部分で、「日本文化=魅力的な文化」というイメージはありましたが、これは多くのロシア 人が、なんとなく持っているポジティブなイメージでもあります。

私も多くのロシア人と同様、最初はそういったイメージがありましたが、実際に日本人と交流したところ、話しやすくて、みんなすごくフレンドリーというか、とても面白かったんです。
それまでは、別の国の同い年の学生たちと交流するいう経験がなく、そういった経験は日本人との交流が初めてでした。

私の友人や同じ学部で勉強していた学生の中には、高校生のときにイギリスやアメリカの語学学校に留学している人もいて、そういった経験があったと思いますが、自分は留学経験がなかったので。
初めての交流の経験が日本人だったので、なおさら日本への思い入れが深くなったんだと思います。

それと、日本語を独学で勉強し始めたときも、文字が全然違うので、すごく好奇心を持って、勉強することができました。
当時英語も勉強してましたが、英語ともまた全然違うので。そういうところも面白かったですね。

 

大統領になりたかった過去から起業に至る現在まで

--ヴォロシオフさんは、現在日本で起業されてますが、昔から起業したかったんですか?

昔は、大統領になりたかったこともありましたし、国際関係を学んでからは、外務大臣もいいな、と思ったこともありました。

そのため、大学時代は、大使館の仕事などにも関心があったんですが、実際に話を聞いたところ、割と面倒くさいことが多くて、あまり自由もないので、やめとこうかなと思うようになりました(笑)

大学で国際関係を教えてくれる先生の一人が元大使で、外交官の仕事に関する自身の経験談を教えてくれたんです。

先生が言うには、結局、外交官の仕事は、雑誌や新聞を読んだり、テレビを見たりして、そこか ら得た情報を分析して報告することが主とのことで、たぶんこの時点で、私の同級生の90%は「ちょっと違うな」と思ってましたね。

そこから何をしようかなと。
国連のような国際機関で働くことも考えましたが、この頃から「ビジネスもいいかな」と思い始めたんです。
ただ、ビジネス=大企業の社長というイメージがあったので、「学生の自分」と「ビジネスをしている自分」のギャップが埋められず、どうやって起業するか想像できなかったので、手を出せないでいました。

 

--なるほど。昔は、将来について色々な選択肢を検討されていたんですね。

ちなみに、モスクワ大学を卒業してから、東京大学大学院に入学するまで、1年間の空白期間があるんです。

その期間は、何か、とても変な気持ちを抱えていましたね。
今まで、自分はモスクワ大学の学生で、「自分が誰か」が明確にわかっていましたが、一度大学を卒業してしまうと、「自分が今何をやっているのか」、「次は何があるのか」、そういったことが、すごく不安になった時もあったんです。

まだこの時は、「素の自分」で勝負することが難しかったということですね。
そのため、もう少しの間、大学の環境が欲しかったので、大学院に修士課程を取りに行くことにしました。
モスクワ大学もそうでしたが、大学は特にイベントのようなアクティビティが多いですよね。
大学を卒業して、同じような日常が毎日続いていると、すごく大事なことが失われた感覚になりました。

そういった事情もあって、私は大学の中で成長し続けるという選択肢を選び、東京大学という、更に自分が成長できるであろう環境に身を置くことに決めました。

ただ、もちろん成長はできましたが、アクティビティがたくさんあったモスクワ大学と違って、東京大学は研究に特化していたので、少しつまらないとも感じたんですよね。

大学院での研究テーマを決める際、先生から「その分野でこれまでに発表された論文を全部読まなければならない」と言われて、それを検索したところ、結構絞ったにも関わらず、なんと1000冊以上も出てきて。
これからの2年間、ずっとこれを読み続けながら、学業を続けていくのは、ちょっと難しいと思いましたね(笑)

そうしたところ、クラスメイトのカザフスタン人がスタートアップに興味があったことがきっかけで、一緒にその関連のイベントに行くことになったんです。
イベントでは、東京で起業している外国人がスピーチしていて、英語がメインだったので、参加者は外国人が多かったです。

実は、彼らの話を聞いたことで、学生の自分と実際にビジネスをしている自分のギャップを埋めることができたんですよ。
少人数でスタートした企業が、どのようにして少しずつ成長していくかというのが見えたんです。

そこで、起業について、ロシアでエンジニアをしている兄に相談したところ、面白がってくれて、何かサービスを作ろうという話になったんです。
当時はもちろん、会社の作り方や株式などについて何も知らなかったので、ネットで調べたり、イベントなどにも足を運んで、どんどん新しい人と知り合って、ベンチャー投資などについて学んでいきました。
ベンチャーキャピタルの相談会のようなイベントに申し込んで、自分が考えているサービスについて、投資家と話したりもしましたね。
そんなふうにして、少しずつ勉強していきました。

私は勉強、兄はサービスのプロトタイプを作ったりとかしながら、大体半年ぐらいで、実際にエンジェルから出資してもらうことができ、そこからは兄もロシアでの仕事を辞めて、完全に私の企業の開発担当者になりました。
その半年後、再度資金調達ができたタイミングで、兄も来日しました。

 

起業の分野として「IT」を選んだ理由

--起業の分野として、ITを選ばれたのはやはりお兄さんの存在が大きかったんでしょうか?

いえ、そういうわけではありません。
自分が興味を持っていたのはエネルギー分野でしたし、大学の研究室では、都市計画などを学んで いました。

IT分野で起業したきっかけは、何かのメディアで、「SNSのアクティビティをサービス等の購入に利用できる仕組みを作っているロシア企業」に関する記事を読んだことです。

これと似たサービスを日本でも作るというアイディアを兄に共有したところ、「日本でもインスタグラムに食べ物を載せたりするのが流行っているから、日本にもこのサービスがあれば面白いかも」と、共感してくれてたんです。

 

--それがLikePayの始まりなんですね!

そうですね。
ただ、最初にLikePayが始めた「SNSの『いいね』をお金に変える」というサービスは、コロナのせいで全部ストップすることになりました。

当時、サービスを展開させるために、例えば、「カフェに行きましょう」とか、「レストランに行きましょう」という種類の広告を回したり、ユーザーにアプリのプッシュ通知を送ったりもしていました。

そうしたところ、当社に投資してくれている方から、「今のコロナ禍の時期に、こういうプッシュ通知を送るのは、あんまりよくない」という指摘をもらったんです。
確かに、当時はみんなが自粛生活をしていたわけですから、その通りですよね。

しかし、そうなると、私たちとしてはサービスを展開しなければならない反面、私たちのやろうとすることが政府の方針に反することになってしまい、本当に何もできない状況になってしまいました。

そのため、結局、一年半かけて展開した「SNSの『いいね』をお金に変える」サービスを辞めて、方向転換することになりました。

当時は結構大変だったんですが、そこから現在の事業でもある「ノーコードプログラミング」をサービスの主軸に置くことになったんです。

 

ノーコードプログラミングツール「Webflow」

--コロナは飲食店だけに留まらず、色んな業界に打撃を与えましたよね。その中で思い切った方向転換をしたんですね! 

この「ノーコードプログラミング」(以下、ノーコード)との出会いも面白かったんです。
これは元々、自社(LikePay)のWebサイトを改良するところからスタートしたんですよ。

もともとLikePayのWebサイトは、兄が作ったもので、とてもシンプルなデザインでした。

ただ、自分としては、サービスを展開する上で、記事やユーザーの声を載せたりとか、もう少し動的な要素が欲しかったんです。

そのため、デザイナーにWebデザインをお願いしたんですが、仕事がすごく遅かったんですよ。
半年ぐらいかけて、やっと出来上がったような状況でした。
これでは、今後再度リニューアルしたくなった時に困るな、と思いました。

そこで、自分でもWebサイトを作れるようになろうと、Wixなどを試してみたんですが、デザイナーが作ってくれたようなデザインは全然作れず、ダサい物しかできませんでした。

どうしようかと悩んでいたところ、これまた偶然に記事を読んだことがきっかけで、Webflowというサービスに出会ったんです。

記事の内容は、ロシア出身の起業家がとても大きな資金調達したというもので、それがWebflowの創業者のことだったんです。
彼は、子どもの頃にアメリカに移住したアメリカ育ちのロシア人です。
その記事を読んで、ノーコードでWebサイトを作れるというWebflowに挑戦することにしました。

最初は少し難しかったこともあって、本格的に始めるまで、期間が空くことになったんですが、LikePayのWebサイトを再度作り直さないといけない状況になったときに、もう一度Webflowを使うことになり、その際は、1週間くらいでWebサイトを作り直すことができたんです。

出来上がったWebサイトを兄に見せたところ、「初めて作ったにしてはすごい」と言われました。
それがハマるきっかけになって、Webflowを使って、もう一度サイトのデザインを変えて、記事を作ったり、いろいろなコンテンツを追加したりしました。コロナ禍になる直前のことでしたね。

その後、私自身がWebflowを使って、Webサイトを作れるようになったことで、案件として、Webサイトの構築を請け負うことができるのではないかと思うようになりました。

ただ、当時日本ではWebflowはほとんど知られていませんでした。
プログラミング未経験の私でも良いWebサイトが作れるほど、良いサービスなのに、誰も使ってないのはもったいないと思いましたね。

そこで「誰も知らないなら、自分がそれを教えればいい」と思い、Webflowによるノーコードのスクールを作ることにしました。

スクールは2020年9月ぐらいからスタートしたものの、最初の3ヶ月くらいは会員ゼロの状態でしたね。
コロナ禍になってから、ノーコードというキーワードが日本でも少しバズり始めて、Bubbleというノーコードツールが少し流行ってましたが、Webflowは誰も使ってなかったんですよ。

Webflowは、世界では最も使われているノーコードツールなのに、日本でほとんど使われてないのが不思議でした。
そうした中で、私は、WebflowについてTwitterで呟いたり、YouTubeの動画を作成したり、記事を書いたりして、少しずつ知ってもらえるように頑張っていました。

その後、多くの人が参加するイベントでWebflowについて話す機会をもらえたことで、やっと知ってもらえるようになったんです。
私も所属するコワーキングスペースを運営している「creww」という会社が、「NoCode Japan」という団体と一緒に、「NoCode Summit」というイベントを開催していたんです。
私は「creww」の人たちと仲が良かったこともあり、イベントの枠を15分もらうことができました。

その枠の中で、私は「Webflowを使って、とても良いデザインのWebサイトが作れること」、「サイトに会員システムやデータベースを連携できること」などを話したほか、Webflowでのノーコードプログラミングを教えるオンラインスクールを開講している旨も発表しました。

同イベントは、zoomで300人くらいが見ていたこともあってか、それがきっかけで、Webflowが 日本でも認知されることになり、オンラインスクールにも少しずつ会員が増えました。その結果、初めて、スクールから売上利益を作ることもできたんです。

今では、ノーコードに関する何かしらのイベントがあれば、そのほとんどに誘われる状況になりました。

 

---後編に続きます---

 

 

 

(インタビュアー/山地英明)

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