ロシアを始めとした世界各地で開催される国際音楽祭に度々招かれるなど、世界を舞台に活躍されていらっしゃる音楽家・作曲家の浅香満さんのコラム「ロシア音楽裏話」第6話です。
前回までの連載記事はこちらから
(以下、浅香さんのコラムです)
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国際音楽祭のリハーサル会場になっているカザン国立音楽院に予定時間を大幅に超過して到着しました。
部外者は誰一人として通さないという強い意志を感じさせるセキュリティー厳重な入口で警備員のチェックを受け(※後になってから裏口やその他にもノーチェックの出入り口がいくつもあることが判明してズッコケそうになるのですが)音楽院の構内に入ると、音楽学部長のマラート・ザリポフ教授が満面の笑みで迎えてくれました。
前にも書きましたが、この地で「満面の笑顔」に謁見することは極めて珍しいのです。
「お待たせして申し訳ありません。長時間お待たせしてしまったのではありませんか?」と通訳のセルゲイさんを通じて伝えてもらったところ、 「ノープログラム!」という返答がありました。
ノープログラム??
そうです。カリムリン作曲家同盟チェアマンが発明した「ノープロブレム」に代わるこの地でしか通用しない名言は、この音楽院内にも感染が広がっていたのでした。
因みにカリムリン氏はここの音楽院の作曲家教授でもあり、教授会でも強い発言力を持っている一人であるとのことでした。
ここを訪ねる前に立ち寄っていた作曲家同盟を出発した際にカリムリン氏が直々に連絡を入れてくれていたので「ノープログラム」なのだそうです。
構内に入って最初に目についたのは壁一面に据えられた巨大な柱時計でした。
感心なことに何かにつけて時間にルーズになりがちなこの地にあって時間の大切さ、時間を守ることの意義を身をもって示しているように思われました。
入構した目の前に鎮座させているのは、なんと効果的なことか!・・・と、ここでも感動しそうになったのですが、よくよく見てみると頭の中にこの時計と同じくらい巨大な「?」が浮かび、一瞬固まってしまいました。
それは、今の時刻は午後3時過ぎなのにもかかわらず、 示しているのは何と6時34分だったからです。
何故、今でもこの当時の正確な時刻を覚えているのかと言えば、「6時34分」、つまり「634」で「ムサシ」、そう、東京スカイツリーの高さと同じ語呂だったからです。
勿論、訪問した1993年当時は東京スカイツリーの建設はまだ始まっていませんでしたが・・・
マラート学部長に現在時刻でない時間となっているのはどうしてか?と尋ねましたところ、誇らしげに胸を張って 「これはとても歴史的に価値ある貴重な時計です。何しろ一日に2回だけ正確な時を告げるのですから」 という返答がありました。
あまりにも堂々とした少し威張った態度でしたので、その勢いに押され「ほう、そうですか・・・」 と、思わず感服したような相槌を打ってしまったのですが、冷静になって考えてみると 「一日に2回だけ正確な時を告げる・・・何だ、要するに止まっているだけじゃないか!」 ということに暫く経ってから気付き、安易な相槌に酷く後悔したのでした。
構内を進んでいくと、この入り口だけでなく廊下伝いの壁や教室の入り口、階段の踊り場、教室の中等、そこかしこ至る所に大小様々なサイズの時計が掛けられています。
宛ら時計の展示場、博物館を思わせるくらい豊富な種類と数です。
そして驚くべきことに私が確認した限りでは、全ての時計が皆、異なった時刻を示しており、これだけ数が揃っていながら、どれ一つとして正確な現在の時間を示しているものはありませんでした。
それも「5分」遅れとか「10分」進んでいるとかいうレベルではなく、「時」の単位だけでも見事にまちまちです。その殆どには秒針がついており、どれも秒針は動いていましたので、入口の大時計のように「止まって」いるわけでは決してありません。
最初は、浅はかにもここの音楽院の卒業生が世界各地で活躍することを願って世界の主要都市の時間を示したものではないのかとも考えていたのですが、「分」の単位もバラバラでしたので、どうやらそうではないようです。
このことを再度、マラート学部長に訊いてみましたところ、再び誇らしげに胸を張り、なお一層威張るように 「ロシアの時計は世界一進んでいるのです!」 という意味不明な答えが返ってきましたので、もうこれ以上、時計の「時間」について詮索することはそれこそ「時間」の無駄であることを悟りました。
この音楽院の時計は単なるオブジェと化しているようです。
そして彼らの頭の中にある「時間」に対する観念の象徴でもあ るように思えてきました。
なるほど、ただ一つとして正しい時刻を示すことの無い多くの時計に囲まれる環境に身を置くことで「ロシアン タイム」の感覚は磨かれるのだ・・・と妙に納得したものです。
ところで、ここは「音楽院」であるにもかかわらず「音楽学部」があることに少し違和感を覚え、音楽以外の学部も存在するのか尋ねてみました。
その答えは今度は理論的に明快で、例えば日本の芸術大学にもヨーロッパの音楽を扱う学部の他にも「邦楽」つまり日本の「伝統音楽」を中心としたセクションがあるのと同じように、ここカザン音楽院でもマラート氏をトップとしたクラシック音楽の学部とは別にタタールスタンの伝統音楽の継承者を育てたり、伝統芸能の研究者を養成する学部も存在し、当時の副首相はここの音楽院のこの伝統音楽の学部の出身(※実は音楽院出身の政治家は意外に多いようなのです)でバヤンというアコーディオンに似た民族楽器の名手でもあり、実際に「民族の祭典」等の国家的な行事がある場合は、政治活動よりも演奏活動の方を優先させているという噂でした。
マラート氏が我々日本人作曲家たちの作品の演奏の練習をしている部屋に案内してくれたのですが、私の友人でもあるS氏の作品を練習している筈の部屋のドアを開けたところ誰もいません。
例によって遅刻しているのか、はたまた我々が大幅に遅れたため練習が終了してしまったためか・・・
この地で演奏される予定のS氏の作品はサックスとピアノのために作曲された氏の最高の自信作であり、サックスはタタールスタンを代表する名演奏家、ピアノはニューヨーク在住でアメリカでも広く活躍している奥様で、私もこの組み合わせでS氏の自信作が披露されることを楽しみにしていました。
一体どうしてしまったのでしょうか・・・ と困惑の表情を浮かべるS氏のもとに、先程、タタール作曲家同盟で別れたばかりの音楽祭の総合プロデューサーであるカリムリン氏が血相を変えて飛び込んできました。
「あなたの作品を演奏することになっていたサックス奏者が昨日、亡命してしまいました!」 とのこと。
一同、呆気に取られてすっかり言葉を失ってしまいました。
何と何と・・・そんなことがあるのでしょうか?
この日本では絶対にありえないシチュエーションに遭遇し、ここは確かにロシアなのだと実感させられた瞬間でした。
「何のために遥々カザンまで来たのか・・・」 S氏は絶句してすっかり落ち込んでしまいました。
今回の国際音楽祭は「招待」という扱い(※ビザの申請上)となっているのですが、共産主義崩壊後の財政難の時期であることから、ロシアでの滞在費は主催者側が負担してくださるものの、現地までの交通費は「自己負担」となっていました。
したがって、時間、労力、財力を総動員して自信作披露に臨んだ彼の「これまでの人生の最大の大勝負」(※彼自身の言葉)は泡と消えたのでした。
共産主義時代には国家の手厚い保護、保証を受けることができていた音楽界の実力者にとって、この状況は「表現の自由」という点では精神的な活動の広がりがあったものの、それと引き換えに生活は一変し、一気に厳しくなったそうで、音楽院の教授クラスでも中には音楽以外の副業でやっとのこと生計を立てていた方々も少なからずいて、この時期、亡命は頻発していたのでした。
奈落の底に突き落とされたようなS氏に対して心無いメンバーの一人が追い打ちをかけるように 「よっぽど彼の作品を演奏したくなかったんだな・・・」 とその時は笑えないジョークを飛ばしました。(※この発言は確か私だったような気が・・・)
確かに彼の書く作品は何れも難易度の高いものばかりで敬遠したくなった演奏家が多くいた(失礼!)ことも事実なのですが、 S氏は最早怒る気力も失い、ただただ項垂れているだけでした。
因みに後日、音楽祭が終了して帰国した際、「S氏の作品が原因でタタールスタンの前途有望なサックス奏者が亡命してしまっ た」という妙な噂が日本の作曲界に広まってしまい(※この噂を広めたのも私だったような気が・・・)、S氏はこの噂をかき消すために躍起となっていたのでした。
さて、音楽祭でのその後のS氏の元には、実は典型的な「禍を転じて福と為す」という結果が待ち受けていました。
本番がもう明日に迫っていましたので、S氏の難曲を一晩で完璧に吹きこなすことができるサックス演奏家はさすがに見つけることができなかったため、何か良い方法はないものかと関係者で知恵を絞っておりましたところ、同行していた彼の奥様が先述したように当初は地元のサックス奏者と共演するはずのピアニストであることに気付き、「奥様」であるならきっと暗譜でも弾けるご主人のピアノ独奏曲のレパートリーがあるに違いない!と一同、確信しました。
ところが(ここだけの話ですが)奥様はご主人の曲があまりお好きではないご様子で(やはりピアノ独奏曲も難易度が半端じゃなかったようです)暗譜で今すぐ弾けるような曲は「一曲も無い!」と即答されたのでした。
いよいよ追い詰められ、しかし何とかS氏の窮状を救う方法はないものかと更に皆で知恵を絞りあいましたところ、彼は出版されている自作の「子供のためのピアノ曲集」の楽譜を「名刺代わり」に持参していることが発覚しました。こちらの音楽教室でピアノを学んでいる子供たちがいたら、記念に贈呈しようと考えていたのでした。
この曲集は「子供のため」故に難曲揃いのS氏の作品群の中にあって唯一演奏が容易であり、プロのピアニストである奥様にとっては一晩あれば充分にさらうことが可能で文字通り「朝飯前」なのでした。
そこで当初のサックスとピアノのための作品の発表の場は、この「子供のためのピアノ曲集」の中の抜粋された曲目に変更して披露されることに決定しました。
共産主義崩壊直後の、これまで海外の「最先端の文化」に触れることが難しかった環境を打破したいというカリムリン氏の強い意向もあり、音楽面でも「最先端」つまり難解といわれる「現代音楽」を中心としたラインナップによる音楽祭でしたので、一般の聴衆には馴染みにくい響きが多く、中には困惑している聴衆も大勢見かけられたコンサートの中にあって、S氏の作品は「子供のため」故、S氏の手によるものとは思えない(再び失礼!)美しく親しみやすい旋律に溢れ、結果的に聴衆からはどの作品よりも盛大な拍手喝采を浴びることになったのでした。
S氏にとっては極めて不本意な「差し替え」であったようですが、結果オーライで、もし当初のサックス作品でしたらここまでの人気は獲得できなかったに違いありません。
---来月更新予定の第7話に続きます---
(文/浅香満/日本・ロシア音楽家協会、日本作曲家協議会、日本音楽舞踊会議 各会員)
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