ロシアを始めとした世界各地で開催される国際音楽祭に度々招かれるなど、世界を舞台に活躍されていらっしゃる音楽家・作曲家の浅香満さんのコラム「ロシア音楽裏話」第7話です。
前回までの連載記事はこちらから
(以下、浅香さんのコラムです)
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カザン音楽院内のリハーサル会場
自作作品の演奏予定者が突如亡命してしまい、茫然自失となっている友人の作曲家S氏を残して、ロシア国立カザン音楽院音学部長のマラート・ザリポフ氏は、我々日本からの音楽祭参加者の音楽院内の次のリハーサル会場に導いてくれました。
幸い・・・と言ってはS氏に申し訳ないのですが、他の日本人メンバーの作曲作品の演奏家は皆、この音楽院内に留まっていてくれているそうです。
コンサート本番の「前日」という時期に、演奏家がちゃんといるかどうかを心配しなければならないところが、日本では絶対に有り得ないロシアならではの事情と言えるでしょう。
私の作品のリハーサル会場は2階の一番奥の部屋であると告げられたのですが、1階から昇る階段の踊り場で早くも自作作品を練習してくださっている音が聴こえ、「確かに」演奏者がこの場にいることにほっと胸を撫で下ろしたものでした。
しかし、「一番奥の部屋」である筈なのに、遠く離れているこの場ではっきりと演奏が認識できることに驚き、以前に同じような経験があったことを思い出しました。
昔、月に一回程度、仙台でY音楽財団の招きで音楽指導をしておりました。
「わざわざ東京から足を運んでくれているので」と担当者が気を遣ってくれたようで、そこの財団が所有する音楽教室の「2番目」に立派な部屋でレッスンや講座を担当させていただいておりました。
因みに「1番」立派な部屋は東北が生んだスーパースター、隣の山形市在住の高名なピアニストであるH先生専用となっていました。
何故「スーパースター」かと言えば、万人を魅了し聴衆を熱狂の渦に巻き込むピアノの腕前は勿論のこと、その強烈なキャラクターにありました。
外見は芸術家としてのオーラを放つことなど微塵も無く、どちらかと言えばよくコメディアンと間違われることが多い風貌の持ち主でした。
毎回、山形からご自身で運転する車で出勤されるのですが、一度、レッスンに大遅刻されたことがあり、受付スタッフが、「先生、いったいどうなさったのですか?何か事故にでも巻き込まれましたか?」と心配そうに尋ねたところ 、「いやぁ、山形と宮城の県境の峠の追い越し禁止区間でつい追い越しをしてしまい、警察に捕まってしまってね・・・」とのことでした。
なお、H先生はお話をされる際、必ず「いやぁ」という定冠詞を付けるのです。
ある時、ヒマな生徒がH先生が1時間の講座内で何回「いやぁ」を言うかカウントしたところ、実に「63回!」だったそうで、60分間に63回ですので、1分間に1回以上「いやぁ」が飛び出した計算になります。
しかも、H先生の講座はピアノの実演を伴うものですので、どこかで「いやぁ」を連発されていたものと思われます。
それはともかく、県境の峠付近の道路事情に詳しいスタッフが 「それは災難でしたね・・・県境の峠なんかで取り締まりをしていたところなんか、これまで一度も見たことがありませんので、本当に不運だったと言うしかありませんね」と気遣うスタッフに対して、H先生は「いやぁ、その追い越し禁止区間で追い越した車がパトカーだったんだ」。
「・・・」
その場に居合わせた一同、絶句・・・です。
さすがH先生、誰も言葉が出てきません。
この偉大なH先生にはやはり1番立派な部屋を使ってもらうしかありません。
話が少し逸れてしまいましたが、私がいつも利用させていただいている「2番目に立派な部屋」が一度だけ使用できないことがありました。
なんでも私のレッスンの時間帯に「V.I.P.」が使用するから譲ってほしいとのことでした。
この私を差し置いて部屋を使うV.I.P.とは・・・。
こっそり覗こうとしたところ「2番目に立派な部屋」故、完全防音が施され、絶対音漏れがしない筈のその部屋に近づく遥かに手前からピアノの音が確かに聴こえてくるのです。
いったいどこのどいつなのか?と思い、ドアの小さな窓から眺めてみると、そこにはドイツならぬフランスのピアニスト、マルク・ラフォレ氏が一心不乱に練習をしている姿がありました。
氏は1985年のピアノの最高峰のコンクールであるポーランドのショパン国際ピアノコンクールで見事、第2位に輝き、当時最も注目を浴びる人気若手ピアニストの一人で、仙台初公演に向けて熱のこもった練習に余念がありませんでした。
ラフォレ氏の演奏はそれまで「生で」聴いたことはありませんでしたが、放送で拝聴した限りでは特に「音量の大きな演奏」という認識はありませんでした。なので、「音量」というよりも、音そのものの「伸び」が半端ではないこと、そもそもの「音の質」のレベルが並外れていることをその時初めて実感したものでした。
演奏と言えば、とかく、その表現力や解釈が話題となることが多いです。しかし、それ以前に、大前提として「音そのもの」が本質的に違う―防音を施している部屋でさえも突き抜けてしまう「伸びのある音の質」こそ、国際的な、そして世界のトップクラスを証明するアイテムであることを思い知ったのでした。
因みにラフォレ氏が第2位であったこのコンクールの優勝者はロシアのスタニスラフ・ブーニン氏でした。
「2階の一番奥」で練習している筈なのに、階段を昇り始めたその瞬間から確かに私の作品の音が聴こえてきましたので、思わず仙台でのラフォレ氏のことが頭を過り、案内をしてくださっているマラート学部長に感激しながら件の話をしました。
なにしろ、ロシア以外の他の海外からの出演者は全員「世界トップクラス」の演奏家とのことでしたので、地元タタールスタンの演奏家も彼らに勝るとも劣らない最高の演奏家を用意してくださったものと想像できました。
「さすが、カザンのトップクラスの演奏家達ですね!『音の質』のレベルが全く違います!防音の壁をものともせず、まるで階上直ぐのところで演奏しているかのように音が伸びてきますね!日本でのラフォレ氏の練習と同じで、正に彼らの音は世界最高水準の一級品であることを証明しているかのようですね!」
と、興奮気味に語りかけたところ、マラート学部長の顔がすっかり曇ってしまいました。
何か気に障ることを言ってしまったのでしょうか。
気付かないうちに地雷でも踏んでしまったのでしょうか。
「あのぅ・・・」
学部長は少し困惑した表情を浮かべながら続けました。
「実は、彼らの練習している部屋には防音設備は施されていないのです・・・。建物の老朽化が激しいので近々全面的な建て替えを予定しています。その時は全室に完璧な防音設備を整えるつもりです」
これを聞いて山形のH先生の追い越し禁止区間でパトカーを追い越した時と同じように絶句してしまい、思わず階段から足を踏み外しそうになりました。
難航を極める作曲。作曲家人生初のギブアップ?
この国際音楽祭で披露される拙作は「クラリネット、ビオラ、ピアノのための三重奏曲」でした。
日本での初演はこの音楽祭が開催された前年の1992年でした。
実はこの作品は「正常に電話が繋がって」いれば「存在しなかった」かもしれない作品なのでした。
その初演の前年のことです。
次回作の構想をコンサートの主幹であるピアノの師匠と相談し、この編成によるトリオ(三重奏)に決定しました。
過去の音楽史上には如何なる偉大な作曲家にも、この編成による歴史的な傑作は存在していませんでしたので、挑戦意欲を掻き立てられる編成と言えました。
ビオラを一回り小さくした最もポピュラーな楽器であり、演奏方法も近いヴァイオリンとクラリネットは音大の学生時代に「副科」として履修経験がありましたので、ある程度楽器のことは理解しているつもりでした。
ただ「少し弾ける、吹ける」ことは「全く弾けない、吹けない」ことよりも遥かに危険であることが後になって思い知らされることになるのですが・・・。
ところで皆さん、「ビオラ」に纏わる「小話」をご存じでしょうか?
(以下はあくまで「小話」です)
ある「天才科学者の脳」が売りに出されました。
さすがに「天才科学者の脳」だけあって一般人には手が届かない高額な「脳」です。
翌日にこの高額な「天才科学者の脳」を上回る金額の「脳」が売り出されました。
いったい「天才科学者の脳」より高額の「脳」とは何なのでしょうか?
見るとそれは「ノーベル賞受賞者の脳」でした。さらに次の日にこの「天才科学者の脳」よりも高い「ノーベル賞受賞者の脳」をも遥かに上回る史上最高金額の「脳」が売りに出されました。
いったい「天才科学者の脳」よりも高額で「ノーベル賞受賞者の脳」をも上回る史上最高金額の「脳」とはどのような「脳」なのでしょうか?
それは何と「ビオラ奏者の脳」でした。
何故「ビオラ奏者の脳」は「天才科学者の脳」「ノーベル賞受賞者の脳」よりも高額なのでしょうか?
備考欄の注意書きを見ると次のように書かれていました。
「未使用」
これは現役ビオラ奏者から伺ったお話です。
ビオラというのは、オーケストラ最大の「スター」であるヴァイオリンと豊かで暖かい音色で主役、脇役、音楽の要ともいうべきバス(低音)の何れも務めることができる謂わば「マルチプレイヤー」のチェロの間に挟まれ、最も「不遇」な楽器の一つと言えます。
過去の偉大な作曲家のオーケストラ作品の中でもこの楽器が中心となって進行する場面は殆どなく、専ら全体を包む和声の中間的な音を刻んだり持続したりするだけで、稀に主旋律を奏でる時でさえも大方は他の楽器と重ねられ、その楽器の「補強」のような役割が多く、「頭を使う」必要が少ないことからこのような「小話」が誕生したものと思われます。
したがって、この楽器が注目を浴びる作品そのものの数が極端に少なく、「名曲」と言われコンサートの主なレパートリーとなり得る曲はほんの一握りであることから、ビオラの独奏曲やこの楽器が活躍する室内楽の作曲を師匠から強く勧められていました。
幸い、ヴァイオリンの心得はありながらも私はこの楽器の音色が大好きであったことからビオラの魅力を発揮できるような室内楽の創作を決めたのでした。
しかし、作曲作業は難航を極めました。
3つの楽器、クラリネットもビオラもピアノの何れも自分の好きな音色を持ち、それぞれ個々の楽器であれば様々な楽想が浮かぶのですが、この三者がミックスされる良質な響きと音空間が全く掴めないのです。
過去に名作がないことも、参考例をきっかけに創作停滞打破に漕ぎつけることができない原因でもありました。
ここだけの話ですが、現在はパソコンの普及で比較的短時間でコンサートのチラシやプログラムが作成できるものの、当時はレイアウト作成や印刷作業に長時間かかったことから、「作品そのものの楽譜の完成」よりも「プログラム原稿」の締め切りの方が先にあるのが普通でした。
この時はなんと一音符も作曲していない状況で「作品解説」を書き上げていたのです。
各自の持ち時間は「15分」であったことから、演奏時間は時間枠目いっぱいの15分を要し、4つの楽章から構成されていることを既に発表してしまいました。
何故、4楽章構成にしたかと言えば、何しろ「着手前」でしたので、これといった深い計画などなく、ただ単に「起」「承」「転」「結」を象徴した内容で構成すれば何となくうまくいきそうな・・・程度の浅はかさで決めたのでした。
その後でようやく第1楽章の作曲に着手したのですが、もともと筆が遅いことに加えて何も楽想が思い浮かばず、それでも苦労して作業を進めたところ演奏時間が僅か2分30秒しかない第1楽章の完成に何と3ヶ月も費やしてしまいました。
1つの楽章の作曲に3ヶ月も要しているこのペースで残り3つの楽章を作曲すると単純計算で9ヶ月必要ということになります。
しかも「15分」と発表している演奏時間にも遠く及びません。
この時点でコンサート本番まで1ヶ月しか残されていませんでした。
演奏家に練習してもらう時間を考慮すると既に楽譜を演奏者に渡すタイムリミットを迎えていると言える時期です。
どう考えても1ヶ月後に控えている本番に向けて「15分」の「4つの楽章」からなる作品を、演奏者が練習してくださる時間を含めて完成させることなど、到底不可能です。
そこで下した結論が、これまでの作曲人生で「初」のギブアップ、つまりこの作品の作曲を断念するという考えに至ったのでした。
---来月更新予定の第8話に続きます---
(文/浅香満/日本・ロシア音楽家協会、日本作曲家協議会、日本音楽舞踊会議 各会員)
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