2024.08.08

ロシア・ピアニズムを追究するピアニスト・吉永哲道さんインタビュー
「ロシアのピアニズムや背景にある文化を演奏や人に教えることを通じて、発信していきたい」

Today's Guest

吉永哲道さん

1978年愛知県生まれ。10年間モスクワ国立音楽院で学び、2016年には、第2回ロシア声楽コンクールにて最優秀伴奏者賞を受賞。ロシアのピアニズム(ネイガウス流派)を徹底的に学び、響きの美しさを追求するピアニスト。

日本・ロシアに縁をもつ「人」にスポットを当て、その「人」を紹介、そして「人」を通じて、 ロシアの魅力や日本とロシアの関わりなどを、車でドライブするような冒険心を持って発信していく「日ロドライブ」

 

第40回のゲストはモスクワ国立音楽院への留学経験を持つピアニスト・吉永哲道さんです。

 

吉永さんは、ロシア・ピアニズム、ネイガウス流派の巨匠ヴェラ・ゴルノスタエヴァ女史に師事し、モスクワ国立音楽院に留学、同音楽院の大学院も卒業されています。

ロシア・ピアニズムを追究するピアニストとして、演奏だけでなく、指導にも力を入れていらっしゃる吉永さんにロシア・ピアニズムの特徴やロシアの魅力など、お聞きしました。

 

 

ピアニストとしての原風景

--今日はよろしくお願いします!まず最初に、吉永さんがロシアのピアニズムに関心を持ったきっかけについて、教えてください!

具体的に、何かこれがあったから、ロシアのピアニズムに関心が向いたっていうようなことはないんです。
ただ、私がロシアのピアニズムというものを、深く学びたいと考えるきっかけになったのは、おそらく「先生」との出会いだと思います。

 

--どのような出会いだったのでしょうか?

現在、私はヤマハマスタークラスという場所でも教えているのですが、私自身、元々その在籍生だったんです。
小学校6年生のときから19歳でロシアに留学するまで、在籍していました。

世界的な指揮者で、チェリストだったM. ロストロポーヴィチ氏が、「ヤマハには才能のある生徒がいるのに、専門家を育てるような教育システムがないことが残念だ」と、設立を提案したことがきっかけで、ヤマハマスタークラスは、 1988年に立ち上がりました。

私は設立の2年後に、第二期生という形で、ヤマハマスタークラスに入りました。
同クラスで、誰が中心になって、音楽を教えるのかという話になったときに、私がその後マスタークラスとモスクワ留学を通じてお世話になる、ヴェラ・ゴルノスタエヴァ先生に白羽の矢が立ちました。

彼女はロストロポーヴィチ氏の招きで、日本に来て、ヤマハマスタークラスで音楽を教え始めました。
そういう経緯があるんですよ。

私は、1990年の3月にヤマハマスタークラスのオーディションを受けまして、そこで初めてヴェラ・ゴルノスタエヴァ先生にお会いしました。

そのときから、今でも記憶に残ってることが2つあります。
オーディションはヤマハの生徒が何人か集められ、先生の前でピアノの演奏を披露し、先生がそれに対してコメントをするという形で進みました。

私もオーディションで、数曲演奏させていただきまして、そのうちの一曲がショパンの「革命」と呼ばれている有名な練習曲でした。

先生はその演奏に対して、「今のあなたには、テクニック的にも精神的にも、この作品を理解して弾くことはできない」と言われました。
そして、「この曲はこういう曲なんですよ」とおっしゃり、その場で全曲弾いてくださったんです。
これがもう本当に衝撃的な体験で。

もう一つは、そのときに使っていた楽譜についてです。
当時、1985年にワルシャワのショパンコンクールで、スタニスラフ・ブーニンが優勝して、日本ですごくブームになったんですね。

例えば、ブーニンがショパンコンクールで弾いた作品を集めた楽譜というのが出版されたりして。
実は、私はそれを使って、「革命」を弾いてたんですよ。オーディション当日もその楽譜を持って行きました。
楽譜は、表紙にブーニンの顔写真がバーンと載っていて、その下に小さく、ショパンの名前が書いてありました。

それをご覧になった先生が、私の演奏が終わった後に、私とその場でお聴きになってらっしゃる先生方に対して、「今日、私は会場にいる皆さんに言いたいことがあります。これはもちろんこの少年(注:私の事)の責任ではないけれど、彼が持ってきた楽譜を見てほしい」と。
「私はスタニスラフが素晴らしいピアニストであることは知っていますが、この楽譜はショパンの曲集であるにもかかわらず、ブーニンの顔写真が大きく印刷されていて、申し訳程度にショパンの名前が書いてあります。これは、いかにブーニンが素晴らしいピアニストとはいえ、作曲家としてのショパンに対する冒涜です」という旨をおっしゃったんです。

おそらく先生は、その場で言わずにいられなかったんだと思います。
「日本の子どもはこんな楽譜を使ってるのか」と思われたんでしょう。

一言一句正確ではないんですが、先生の演奏とその発言が、私の記憶にすごく残っていて。
子どもながらに、音楽と真剣に向き合うということを考えさせられました。

(故ゴルノスタエヴァ先生と)

 

--まさに、子どもながらに衝撃的な体験だったんですね。

当時、私はおそらく認識していなかったと思うんですが、いわゆるロシアのピアニズムの系譜に属する演奏家に出会い、その演奏の響きを初めて直接体験した、そういう機会だったと、今になって思います。

記憶をたどると、自分がロシアのピアニズムに足を踏み入れるきっかけになった出来事でした。

 

--小学6年生のときが、吉永さんにとってのロシア・ピアニズムの原風景だったんですね。

ヤマハマスタークラスでは、ゴルノスタエヴァ先生が、年に2、3回来日して、1回のレッスンにつき約3週間、日本に滞在していました。
私は地元が愛知県だったので、愛知県から東京にレッスンを受けに行っていました。
高校を卒業するまで、普段は日本の先生にご指導いただきながら、ゴルノスタエヴァ先生のレッスンを受けました。
その後、日本の音大に少しの間、籍を置いたんですが、やはり、この先勉強していくのであれば、ゴルノスタエヴァ先生に学びたいと考えて、モスクワ音楽院への留学を決意しました。

モスクワ音楽院時代も含めて、ゴルノスタエヴァ先生には、足かけ18年間、師事したことになります。ゴルノスタエヴァ先生を通して、私はロシアのピアニズムに触れてきました。

 

ロシアのピアニズムについて

--ぜひ、ロシアのピアニズムについても教えてください!

ロシア・ピアニズムの最大の特徴は、ピアノの音を人の声のように歌わせようとすることだと思います。
ヤマハマスタークラスでレッスンを受けていた10代のころ、先生から本当によく言われたのは、「あなたの音は響いてない。音に色がない。音に本物の声がない」ということです。
そういう言い方をされるんですよ。

正直、やっぱり中学生ぐらいだとよくわからないんです。
「音が響いてない」と言われても、「どういうことなんだろう」みたいな。
先生が出している音と、自分が出している音が明らかに違うのはわかるんですが、「響く音」とは一体何なのかということが、なかなかわからなかったというのはあります。

ただ、わからないなりに、音に色がなければいけないし、音は本当の意味で、空間に広がっていくようでなければならないということは実感できました。

よく先生は、「鍵盤のそばに音が残ってはいけない」という言い方をされていたんです。音が空間に放たれてないといけない、自由に音が飛んでなければいけないと。

私ができるできないに関わらず、言葉は悪いですが、洗脳されるように教え込まれたことによって、自分の中で、「音というのは響いてないといけないんだ」という価値観を10代の頃から持てたことは、自分にとって、とても幸いだったと思っています。

ロシアに留学した後も、「音に命がなくてはいけない」と度々言われました。これもゴルノスタエヴァ先生のみならず、ロシアの方々がよくおっしゃることです。

「一つの音にこだわる」、「一音をいかに響かせるかということに、多くのエネルギーを費やす」というのが、ロシアのピアニズムの大きな特徴かなと私は理解してます。
もちろん、ロシアのピアニズムにも色々な流派がありますが。

ロシアのピアニズムは、作品を弾くときに、作品全体の構造を整えていくというよりも、「一つの音が何を意味するか」とか、「その数小節のフレーズが何を語ってるのか」を重んじます。
何を語っているのかが伝わらなければならないと。

そういう意味で、先生からはよく、「頭ではなく、感情で音楽を理解しなさい」と言われていました。
ロシアのピアニズムは、感覚的なことを非常に優先する、「感覚の文化」との言い方もできると思うんです。

モスクワでレッスンを受けていたときのことです。
シューベルトのある作品をレッスンしていただいたときに、もうそれはですね、酷評されて、けちょんけちょんに言われたんですよ(笑)

「もうあなたの演奏なんて聴いてられないわよ」というところから始まって、いろいろなことを言われて。
レッスンが終わった後、その曲をコンサートで演奏する予定があったものですから、先生に「今日言われたことを、何とかできるように努力します」と申し上げたら、先生は笑われ、おっしゃられたんです。
「努力する必要はない、音楽を感じて弾けば、それでいいのよ」と。

「感じるままに弾く」といっても、そこに知識などの裏づけがないと、ただの支離滅裂になるわけじゃないですか。

でも、「考えて弾くこと」と「感じたものを弾いてること」というのは、何か決定的に違うということは、そのときにすごく思ったんです。

私は当時20代後半でしたが、そのためにどうすればいいかというのことは、やっぱりなかなかわからなかったです。

感情的なこととか、感覚的なことは、ロシアに色々なピアニストがいるとはいえ、共通することかなと思っています。

 

--吉永さんはロシアのピアニズムの数ある流派の中でもネイガウス流派を追究されていますよね。

ロシアのピアニズムに、色々な流派がある中で、ネイガウス流派というのは主要な流派の一つです。
ゲンリフ・ネイガウスの演奏というのが、非常に詩的で、感覚的な美というのをすごく感じさせるんですよね。

感覚的なこと、詩的なものを大事にしているというのが、ネイガウス流派の大きな特徴かなと感じています。

ゴルノスタエヴァ先生が、ネイガウスの特徴としておっしゃっていたのが、「ネイガウスの中には、ヨーロッパの文化とロシアの文化という二つの大きな文化がある」ということです。

ネイガウスは、ベルリンやウィーンで学んだ後にモスクワに戻ってきて、演奏活動や教授活動を始めました。
そういう意味で、ゴルノスタエヴァ先生は、「ロシアの文化だけでなく、彼の中でヨーロッパの伝統とロシアの文化が結びついているということが、ネイガウス流派の特徴だ」とおっしゃっていました。
私もそうだと思っています。

それとネイガウス自身が、非常に文化的な人物で、ありとあらゆる芸術に通じていました。例えば文学に関して、あらゆる詩を誦じており、レッスンにおいてそれらを引き合いに出しながら、そのイメージを演奏に反映させていくー そういったアプローチをしていたそうです。

そのスタイルを受け継いでるのが、ゴルノスタエヴァ先生だったと思うんです。

レッスンでは、先生はとてもお話が長いのが常でした(笑)
曲が書かれた頃の時代背景であったり、どういう文化が影響して、こういう曲になったとか。例えば、バッハの曲を弾くと、必ず聖書のお話になったりしていました。

他分野の芸術からイメージして、それをどうやって演奏に落とし込んでいくかということを通して、生徒に音楽を理解させようとしてくださる方でした。

イメージは感情的なものもあれば、視覚的なもの、思索的なものまで、色々あると思います。
結局、演奏というのは、そのイメージを全て音で伝えなければならないので、そのために非常に詩的で、多彩な音色というのを必要としたのが、ネイガウス流派だと思うんですね。
ここに、私は非常に魅力を感じています。

 

モスクワ音楽院時代のエピソード

--詩的で感覚的なところがネイガウス流派の特徴なんですね!ぜひ、ロシアのモスクワ音楽院時代のエピソードなどもお聞かせいただいてもいいですか?

日本の音大に籍を置いていた当時、モスクワ音楽院への留学についてゴルノスタエヴァ先生に相談した際、先生は「私は、モスクワへの留学は勧めない」とおっしゃられました。
「言葉も大変だし、学生寮での生活環境も日本に比べたら大変だろうから、私はモスクワに来ることは勧めない。それでもあなたが来たいと言うのであれば、私は拒否しないけれど」と。

先生は、生徒にすごく愛のある方でしたから、日本人がモスクワに来て、どれだけ苦労するだろうかということを、おそらく、すごく考えてくださったんですね。
だから、そういう意味で、「苦労を覚悟の上で来たいのであれば、私は受け入れますよ」という姿勢を示してくださったというのが、先生の優しさであったり、生徒に対する心遣いだったのかなと思います。

その後、半年ぐらい日本でロシア語を勉強して、モスクワに渡りました。
しかし、やっぱり、いくら半年間日本でロシア語を勉強していても、すごく大変で。

1998年9月から留学したんですが、まだ当時は、そのスーパーのシステムとかにソ連時代のもが結構残ってたんです。
カウンターで、欲しいものを店員に伝えて、中央のカッサ(レジ)にお金を払って、後で商品を受け取るというシステムです。

店員には、口頭で伝える必要がありますが、ロシア人って受け答えのとき、「あぁ?」ってすごく言うじゃないですか(笑)
そのロシア人のリアクションが何か怒られてるように感じて(笑)
レッスンの約束をするときも、基本的に先生と電話で約束するので、これも慣れないうちは「こういうふうに言って、もしこういう返事が来たら、どうしようかな」といったことを紙に書いたりして、それを読むようにしたりとか。

やっぱり、最初は言葉にはすごく苦労しましたね。

(モスクワ音楽院の前で)

 

ロシアの魅力について

--吉永さんがモスクワ留学などを通じて感じた、ロシアの魅力はありますか?

私は結構ロシアの食事が自分の舌に合っていて、食事が美味しいと感じました。
これは大きなロシアの魅力でしたね。

ロシアにはジョージア料理のお店もたくさんありますよね。
そういうところにもよく行っていて、ジョージア料理もすごく気に入りました。

音楽院ではロシア語の授業もあり、私が教わっていた先生は、非常に博識な方でした。
学年が進むにつれて、授業の中で文学作品を取り上げて、その内容について先生と討論するなどしていました。

その先生は、私に様々な本を紹介してくださり、例えば、クプリーンやチェーホフなどの本を辞書を引きながら、色々と読みました。
言葉に苦労しながらも、原語でロシア文学に触れることができたというのは、自分にとって、非常にありがたいことだったなと思っています。

特に、イヴァン・ブーニンは日本にいたときは全く知らなかった作家です。先生が「あなたはきっと好きだと思う」とおっしゃり、勧めてくださった作家で、とても気に入りました。

私は、ロシア絵画も好きで、プーシキン美術館よりもトレチャコフ美術館の方によく行っていたんですよ。
特にイサーク・レヴィタンの風景画がすごく好きで。
それをロシア語の先生に伝えたら、「レヴィタンのこの風景絵は、こういう意味が込められていて、だから、彼はこのように描いたんだ」ということを教えてくださったりして。
絵画を楽しむにあたっても、そういった作家の意図を知ることで、より深く楽しむことができると教えてもらったんです。

それともう一つ。
これは、もちろんロシア人全員ではなくて、個人差もあると思いますが、ロシア人は基本的に楽観的じゃないですか。
日本にいるときは、あまりそういったイメージはありませんでしたが。

「ロシア人って、本当はこうだったんだ」ということを、知ったのは驚きでした。
ロシア人って何か困ったことがあっても、「まぁ、何とかなるよ」っていうマインドで(笑)
演奏する前なんかも、みんなそういう感じなんですね。何とかなるでしょみたいな。
すごくポジティブなんです。

でも、そういう非常に楽観的で、親しくなると、どこまでも付き合ってくれるっていう意味でも、本当に魅力的な人々だなと思います。

(イサーク・レヴィタン「永遠の静寂の上に」(吉永さん撮影))

 

今後の目標について

--ぜひ、最後に吉永さんの今後の展望などについてもお聞かせしていただければと思います!

私は、小学校6年生の時から、ゴルノスタエヴァ先生にレッスンを受け、ロシアの文化なども教わってきました。
これからも自分が音楽を続けていく限り、ロシアのピアニズムやその背景にある文化などを、演奏やそれを人に教えることを通じて、ずっと発信していければいいなというのが、ささやかな夢ですね。

たぶん、私がゴルノスタエヴァ先生に師事した当時、モスクワ国立音楽院の教授が来日して、日本の子どもに教えることは、ものすごく革新的なことだったと思うんです。

先生は、自身の音楽に向かわれる姿勢として、相手が小学生だろうが、中学生だろうが、絶対に妥協しませんでした。

子どもには、まだ理解が及ばないだろうなという部分についても、曲の背景を始め、深い話をしてくださいました。
わずか数小節に1時間でも2時間でもこだわられることもありました。
相手が子どもだから、これぐらいでいいかというふうに妥協することは、本当に一切なかったんです。

そのような形で自分が教わったことに、とても恩を感じています。
だから、演奏であれ、教えることであれ、どんな形であっても、その恩を返していくことか、自分のやるべきことだと思っています。

 

--ありがとうございました!次世代に思いを繋いでいく吉永さんのピアノが今後もすごく楽しみです!

 

 

吉永哲道さんの情報はこちらから

HP:https://www.tetsumichi.jp
X:https://x.com/Tetsumichi113?mx=2

 

 

 

(インタビュアー/山地ひであき)

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