2021.08.31

日本人歌手初のプーシキン・メダル受章者であるバス声楽家・岸本力さんインタビュー
「ロシア音楽の中に日本人の心に響くものがあるのは間違いありません」

Today's Guest

岸本力さん

バス・声楽家。東京藝術大学卒業、同大学院修了。昭和48年に日本フィル「第九」、大阪フィル「森の歌」でバス歌手としてデビュー。昭和59年文化庁芸術祭優秀賞。平成22年文化庁長官表彰賞受賞。平成24年、ロシア大統領メドベージェフより、日本人歌手として初の「プーシキン・メダル」(ロシア文化勲章)を受章。日本・ロシア音楽家協会副会長。「二期会ロシア歌曲研究会」及び「二期会ロシア東欧オペラ研究会」代表。日本におけるロシア音楽の第一人者。

日本・ロシアに縁をもつ「人」にスポットを当て、その「人」を紹介、そして「人」を通じて、ロシアの魅力や 日本とロシアの関わりなどを、車でドライブするような冒険心を持って発信していく 「日ロドライブ」

 

第27回のゲストは、大学時代からロシアの歌を歌い続け、日本人歌手として初めてプーシキン・メダルを受賞したバス・声楽家の岸本力さんです。

 

プーシキン・メダルは、ロシア文化の普及や発展へ貢献した方が受賞するロシアの文化勲章です。

岸本さんは、ロシア音楽をライフワークに公演活動を続けられており、ロシア民謡をロシア語で歌うコンサートの開催のほか、日本ではほとんど知られていないロシアの歌曲の発掘、紹介などにも努めてこられた方です。

まさにロシア音楽の第一人者である岸本さんに、ロシア音楽との出会いやロシア音楽への情熱、数々の勲章受章経験を持つロシアの大物歌手である師匠とのエピソードなど、お聞きしました。

目次

挫折から立ち直るきっかけをくれたロシア民謡

--今日はよろしくお願いします!ロシア音楽の第一人者で、数々の国際コンクールでの受賞歴をもつ岸本さんですが、ロシア音楽、ロシア民謡に関心を持ったきっかけはなんだったんでしょうか?

こちらこそよろしくお願いします。

私は、大阪府茨木市の生まれで父親は大工、母親は農業をしていました。

そんな家に生まれて、音楽を始めたきっかけは、学校の先生から「声がいいから音楽をやらないか」と声をかけられたのがきっかけです。単純な発想ですね(笑)

ただ、音痴だったこともあって、なかなかうまく歌えなくて(笑)
「ファ」のシャープや「シ」のフラットの音が取れなかったんですね。

一方で、人前で歌うことが、とても好きになったので、親族からは反対されましたが、どうしても音大に行きたいと思いが芽生えました。

勉強を始めたのが、高校3年生の4月からということもあって、とても苦労しましたね。
ピアノも弾けませんでしたし、音符も読めませんでしたから。
結局、二浪して、やっとのことで東京藝術大学の声楽科に進学することができました。

苦労の末、入学した藝大ですが、これがすごいハイレベルで。
社長の子息や、卒業したらイタリアに行くとか、そんな学生ばかりです。
カルチャーショックを受けましたね。

もう歌をやめようと思ったほどです。自分にはこの世界は向いてないと思ったんですよ。
悩みすぎて、大学一年生で胃潰瘍になったくらいです。
それで、一度は田舎に帰って、農業の手伝いをしていました。

そうして、実家で田畑を耕していたときのことです。
ある日、畑を耕しながら「ヴォルガの舟歌」というロシア民謡を口ずさんでたんですが、その歌が自分をすごく元気づけてくれたんですよ。

歌いながら、「こんなにも自分を元気づけてくれる歌はない」と思ったほどです。
非常に素朴で単純なメロディなんですが、力強く、土の匂いがする。そこにすごく熱いものを感じました。

そこから、復学して、二年生からもう一度藝大に戻ったんです。
母親からも、「二浪して入学したんだから、なんとか卒業してくれ」と言われてましたしね(笑)

 

ロシア音楽を歌い続けた大学時代と原点

--なるほど、藝大での挫折がロシア民謡の魅力との出会いのきっかけだったんですね!

そうなんです。
二浪してますから、その時20歳くらいですね。

当時、藝大で、ロシア歌曲を学べる授業はなかったんですが、ロシア語の授業はあって、中級が1人、初級が5、6人でした。
そのロシア語の授業を受けて、ロシアの歌を歌う。
これを3、4年間続けましたね。

当時、このようなことは誰もやってなくて、藝大の中でも私だけが行っている活動でした。

そのため、図書館に行ってロシア語の楽譜を借りると、まっさらなわけです。誰も借りてない。
これをロシア語の先生に見せて、発音を教えてもらい、歌う。
それがすごく心地よかったんですよ。

悲しさや哀愁、寂しさとかそういうものがロシア音楽の根底にはあって、そういう曲がロシア民謡やチャイコフスキーなどの楽曲の中にもたくさんあったんですね。

それらを歌い出すと、「変わり者が出てきた」といった雰囲気になって、他の学生からは馬鹿にもされましたが、そんなことは気にしないで、ずーっと歌っていました(笑)

これが私にとってのロシア音楽の原点です。

あの時の挫折から今日まで、私の活動はこの原点からずっと繋がっています。

 

日本声楽コンクールで1位、チャイコフスキー国際コンクールでも日本人初の最優秀歌唱賞を受賞

--その後、岸本さんはロシア音楽の第一人者と呼ばれるまでになっていくんですね。

大学4年生のときに日本音楽コンクールで、「ボリスの死」という曲を歌って、1位になったんですよ。
自分で言うのもなんですが、「今までにない歌い手が現れた」と審査員に絶賛されて、25人の審査員全員が満点をつけてくれました。

これがきっかけで、入学時は下から数えて2番目だった成績が、卒業時には上から2番になっていました。

「ボリスの死」は、オペラ「ボリス・ゴドゥノフ」で、ボリス・ゴドゥノフが死ぬ間際に歌う曲です。

私の父は私が中学生の時に亡くなってるんですが、父の「死の瞬間」を感じたその時の経験をもとに、それをイメージしながら歌ったところ、1位になったんです。
うまく歌おうとして、歌ったものではありませんでした。

コンクール史上初の審査員全員の満点に、友だちなんかは、「お前、審査員にいくらお金を渡したんだ」と大真面目に言ってきたくらいです(笑)
そのくらい、みんなびっくりしたんですね(笑)

当時、「異色のバス歌手」「日本にいなかったタイプのバス歌手」としてメディアでも紹介されました。

コンクールでの「ボリスの死」の歌唱において、私は人が死ぬ様子を舞台で演技しながら歌ったんです。
これが今までにない斬新なこととして、審査員の心を打ち、評価に繋がったんですね。

このコンクールから、私は、「コンクールでは1位になったし、テレビにも放送されたし、雑誌にも載った。自分はロシア音楽を歌って生きていこう」と思ったんです。

その後、ロシアで、チャイコフスキー国際コンクールにも出場して、日本人初となる最優秀歌唱賞を受賞することもできました。

このこともロシア音楽を続けていこうという決意の後押しになりましたね。

 

--挫折を乗り越えて、一つのことを貫き続けた先で、栄冠を手にしたんですね!日本におけるロシア音楽のパイオニアといった印象がさらに強くなりました。そこからCDも出されるようになったんですね。

「ロシア民謡集」というCDを出したんですが、これを日本フィルのマネージャーが気に入ってくれて、日本フィルハーモニー交響楽団のオーケストラで、「ロシア民謡集」の定期演奏を3年間しました。

池袋のホールでの初めての定期演奏会は満員御礼になり、急遽、東京オペラシティでも開催しました。
九州から北海道まで、日本全国からロシア民謡を聴くためにお客さんが来てくださいました。

 

ロシア音楽の普及に対する使命感

--日本でロシア音楽を歌われている方は貴重だと思うんですが、岸本さんがロシア音楽を日本に普及させるために、取り組まれてきたことなどについて教えてください!

おっしゃる通り、日本でロシア音楽を歌う声楽家は多くありません。
そのため、ロシア音楽の素晴らしさを伝えたいという思いは常に持っていて、それは私が日本でロシア音楽を歌い続ける理由の一つでもあります。

ロシアの音楽の中には日本人の心に響くものが、必ずあるはずだと思っていて。

戦後、声楽家の関鑑子先生は、「敗戦に負けず、歌を通して、日本国民よ立ち上がれ」と言って、「うたごえ運動」という社会運動を始めました。

大衆運動として、大盛り上がりした「うたごえ運動」ですが、運動の中では、ロシア民謡がよく歌われていたんです。

そのときのロシア民謡のエネルギーたるや、すごかったんですよ。
私も青春時代に、「うたごえ運動」の歌を聴いたことがあるんですが、それはすごいものでした。

その時点で、日本人の心にはロシア民謡、ロシア音楽を愛する心というのが生まれているんです。
「うたごえ運動」によって、種が蒔かれたわけですね。

ただ、関先生は、敗戦のショックから日本国民を立ち上がらせるために、あえて、ニュアンスを変えてロシア民謡を歌う事もしていました。

例えば、有名な民謡「トロイカ」は、原典では、失恋の歌なんですが、関先生は、これをあえて、明るく前向きに歌うことで、敗戦で傷ついた国民たちにポジティブな印象を与えるようにしたんです。
なので、日本ではむしろ、そちらの方が主流になっていて。

私はこのように、原典と違ったニュアンスで伝わっているロシア民謡について、自身のリサイタルの中で、本来のニュアンスを説明して歌っているんですよ。

時代によって歌は変わります。
敗戦当時は、ポジティブなニュアンスだった歌も、そのショックから立ち上がった現代になってからは、また違ってくるはずです。
そういう意味で、本来のニュアンスをしっかり伝えることに対して、私自身、使命感のようなものを感じています。

私には、「本来のロシア民謡のニュアンスを伝える使命感」、「日本で知られていないロシア音楽を日本に伝えるという使命感」の二つの使命感あるんです。
「自分がやらなければ誰がやる」という思いがあります。

ロシア音楽はマイナーですし、弟子からは「岸本先生、僕はロシアの歌も少しは歌いますが、ドイツやイタリアの歌が歌いたいんです」と言われることがあります。
それを否定はできません。

ただ、私は約50年間、ずっとロシア音楽を歌ってきました。
イタリア音楽なども勉強はしましたが、人前で歌うのは、いつもロシア音楽です。
それくらい、ロシア音楽には思い入れがあるんですよ。

 

自分の道を貫く。目指すはギネス記録更新。

--ありがとうございます。岸本さんのロシア音楽に対する情熱や使命感がひしひしと伝わってきました。岸本さんが、ロシア音楽を歌い続けられる中で気に留めていらっしゃることなどはありますか?

ここまでロシア音楽を歌い続けてきたことで、当初は反対していた私の親も、次第に私のことを周囲に自慢してくれるようになりました。

なので、「親に対して申し訳ないことはできないな」という思いはありますし、親の顔に泥を塗るようなことはしたくないと常々思っていますね。

実は私、生まれ故郷の茨木市から市民栄誉賞をもらっているんですよ。

私がプーシキン・メダルを受章したことで、頂けることになったんですね。
これは本当に良い親孝行をしたなと思いました。

私が音楽の道に進むことを、親族を含め、知り合いからは反対されていましたし、故郷は田舎ですから、周囲からは色々な目もあったことと思います。
私が大きな声を出して歌の練習をしていることで、近所から「気が狂ったんじゃないか」と言われたこともありましたから。

そうした中で、これまで「そうじゃない、がんばっているんだ」ということを周囲だけでなく、自分自身にも示さないといけないという、ある種の意地もありました。
そう、まさに意地ですね。

現在、私は73歳なんですが、肉体的に本当にギリギリのところで歌ってるんですよ(笑)
80歳まで歌い続けてギネス記録を作ろうと思っていて(笑)

そのため、発声に必要な筋肉の衰えを防ぐために、色々と体操をしていますし、お酒も好きだったんですが、数年前に辞めました。
昔は朝方までお酒を飲んでも、朝10時には声が出せていたんですが、それが難しくなってきたので。
お酒の楽しみよりも歌い続けたいという思いの方が強いですからね。

この歳になるまでに、たくさんの友人たちが、様々な事情で声楽を辞めていきましたが、「自分は自分」との思いでマイペースにやってきたつもりです。

元々、声楽の中でも、異端であるロシア音楽を続けてきたことで、周囲からは変人だと思われていましたし、昔から自分の道を貫いてきたつもりですから(笑)

 

師事していた故エレーナ・オブラスツォワ先生からプーシキン・メダルに推薦

--ぜひ、岸本さんにはギネス記録を更新してほしいです!楽しみです!ここで、少し話が変わるんですが、岸本さんはロシアで数多の勲章を授与された経験を持つ大物歌手、故エレーナ・オブラスツォワさんに師事された経験をお持ちとお聞きしました。ぜひ、師弟関係に関するエピソードなどをお聞きしたいです!

エレーナ・オブラスツォワ先生に教えていただけたことは本当に幸運なことでした。

オブラスツォワ先生は、現在、私が教鞭をとっている武蔵野音楽大学で、外国人講師をされていたんですよ。

武蔵野音楽大学では、我々講師陣は、外国人講師の先生に無料で教えてもらえるシステムがあります。
もちろん選抜制ですが。

そのシステムで私はオブラスツォワ先生に約15年間、指導していただいたんです。
本当に幸運でした。

ある時、オブラスツォワ先生から、「力さんはどうしてそんなにロシア音楽が好きなのか」と聞かれたことがありました。

私はそれに対して、「ロシアの歌を聴くと、血が騒ぐからだ」と答えました。

すると、先生は「なるほど」といった様子で唸られて、「あなたをプーシキン・メダルに推薦する」とおっしゃったんです。
同時に、「プーシキン・メダルには世界中から候補者が推薦されるので、あなたが選ばれることはありえない。しかし、あなたは推薦に値する歌を歌っている。あなたの歌には感動した。世界中であなたほどロシア音楽を勉強している人はいない」ともおっしゃってくださいました。

私がプーシキン・メダルを受章したのはこの時から3年後のことです。
これは本当に嬉しかったですね。

(写真:故エレーナ・オブラスツォワさん)

 

--プーシキン・メダルの受章には、そういった経緯があったんですね!?ぜひ、プーシキン・メダル受章に関するエピソードについてもお聞きしたいです!

2012年1月31日に、駐日ロシア大使館から電話がかかってきて、「プーシキン・メダルの受章が決まったので、2月10日にモスクワに来てほしい」と言われたんです。
あまりに急だったので、最初聞いた時、モスクワという名前の喫茶店かと思ったくらいで。しかも、とても簡潔な伝達だったこともあって、ドッキリかと疑ったくらいです(笑)

私とともに、指揮者の小澤征爾さんも受章されていて、そんな大人物とともに受章するということにも驚きました。

モスクワでは、当時のメドヴェージェフ大統領から直接プーシキン・メダルを授与されました。
受章の際、メドヴェージェフ大統領と握手したんですが、その時に「岸本さん、がんばってください」と日本語で言われたんです。
本当に感動しました。まさに夢のような時間でしたね。

(写真:プーシキン・メダル授与の際の様子)

 

オブラスツォワ先生とのエピソード

--大統領と直接握手…。とても緊張しそうです(笑)岸本さんのプーシキン・メダル受章にはオブラスツォワ先生が大きく関わられていたんですね!

先生がいなかったら、プーシキン・メダルの受章はありえませんでしたね。

オブラスツォワ先生には、リサイタルのたびにセットリストを見ていただいて、レッスンを受けていました。

そうしたことを何度も繰り返していたある日、先生が私のセットリストを見て、「この曲は知らない」とおっしゃったんですね。
そして、「なぜ、あなたはこの曲を知っているのか」と尋ねられたんです。

私がそれに対して、「取り寄せたんです。綺麗な曲ですよね」と答えると、先生は「たしかに綺麗だ」と答えて、甚く感動した様子でした。
このときに、「私の知らない曲をあなたが歌っている。これはありえないことだ」と言われたことも、プーシキン・メダルへの推薦のきっかけの一つです。

このときの曲の作曲家がニコライ・メトネルという人物なんですが、あのラフマニノフと同時代を生きたこともあって、その影に隠れてしまった作曲家だったんです。

 

--オブラスツォワ先生の知らない曲を知っていたエピソードからも岸本さんのロシア音楽への情熱を感じますね!

オブラスツォワ先生は、亡くなる前にも武蔵野音楽大学に教えに来てくださってました。

その頃、先生は、気管支を患っていて、咳き込んでいらっしゃったんです。
そのため、声が出なくなっていて、ご自身のリサイタルも中止していました。
そんな中で、中止したリサイタルの次の日に、先生は私にレッスンをしてくれたんです。
あのときは涙が出ましたね。

レッスン中、咳をする先生を見て、私は、「先生、もうレッスンを中止しましょう」と何度も伝えたんですが、先生は、「これが私の使命なんだ。私はあなたにロシア音楽を教えることに使命感を持っているんだ」ということをおっしゃって。

先生が亡くなったのは、その翌年でした。
悲しみに打ちひしがれたのをよく覚えています。

歌手としての世界的名声ももちろんですが、本当に人間的な魅力があって、素晴らしい方でした。

どんな失敗をしても怒らない先生で、どんなときでも褒めてくださるので、パワーがもらえるんです。
本当にいい先生でした。

 

--本当に魅力的な先生だったんですね。

オブラスツォワ先生とのエピソードで、もう一つ印象に残っている話があります。

ある日、どうしても歌い方がわからない曲があって、先生に相談したんです。
ゲオルギー・スヴィリドフという作曲家の曲でした。

曲を見せると、先生は、「この曲はスヴィリドフが私のために作ってくれた曲だ」とおっしゃって(笑)
なんでも、スヴィリドフはオブラスツォワ先生のことが好きだったらしく、それが理由で作られた曲だったそうで。
あまりのスケールの大きさに、こんなことがあるのかと思い、大笑いしましたね(笑)

 

もっと自由に「ロシアの心」を歌える環境を整えていく

--それはびっくりしますね(笑)岸本さんはオブラスツォワ先生から様々なことを学ばれたと思うんですが、岸本さんもまた若手ロシア声楽家の育成などされてらっしゃいますよね?

そうですね、私は後進の育成のために、ロシア声楽コンクールというのを定期的に開催しています。

コンクールでは、アマチュア部門やプロ部門など、様々な部門を設けて、幅広くロシア音楽を広めること、人材の発掘などを目的にしています。

駐日ロシア大使館にも協力してもらいながら、これまでに3回開催しました。

第4回も開催予定だったんですが、残念ながらコロナ禍のせいで断念する結果となってしまって。
コロナ禍が収まり次第、再開したいと考えています。

また、直接的なものに関しては、武蔵野音楽大学での指導や、日本で唯一ロシア歌曲を学べるコースのある桐朋学園大学大学院での指導なども行っていますよ。

 

--第4回コンクールとても楽しみですね!その他に、岸本さんが今後行っていきたい活動や将来的なビジョンなどはありますか?

直近のものでいえば、今年の11月5日に第34回バス・リサイタルを開催する予定です。

第一回を開催して以来、毎年開催してきたバス・リサイタルですが、昨年はコロナ禍で初めて開催できず、悔しい思いをしているので。

このリサイタルは、これからもずっと続けていきたい活動です。

あとは、やはりこれからは若い人を育てていきたいですね。
何かと難しい時代ではありますが…

音楽と生活は不可分ですよね。
ロシア声楽曲はポピュラーでないので、他の声楽曲に比べて、コンサートはそれ程多くないんです。
なかなか私のように、一途に「ロシア声楽曲をやろう」という若者がいないんですよね。

現在まで、ロシア声楽曲が日本において、ポピュラーでない要因の一つに、ロシア語自体が非常に難しい言語であるということが挙げられます。

私は、これではロシア声楽曲が廃れてしまうと思い、ロシア声楽曲の魅力をどうにか広めたくて、「二期会ロシア歌曲研究会」「二期会ロシア東欧オペラ研究会」を作ったくらいです。

時折、ロシア声楽家と言語学者の間で、歌詞の発音について意見が食い違うことがあります。

私自身は、独断と偏見ではありますが、正直、歌と言語では発音が少し異なることがあると考えているため、どちらの言い分も正しいというように認識しています。

歌い手が若い人だと、学者先生の主張と実際に耳で聴いた音との間で、混乱してしまうんですよ。
これはロシア声楽曲の指導における一つの課題だと思っています。

もっと自由に「ロシアの心」を歌える環境作りが大切だと思いますし、育成の場において、どのようにして生徒を混乱させることなく、指導していくかを日々考えていきたいですね。

(写真:第34回バス・リサイタルの案内)

 

--ロシア声楽曲の教育の現場にもそういった課題があるんですね。ありがとうございます。ぜひ、最後に岸本さんにとっての「ロシア」について教えていただけますか?

私は、ロシアの音楽はもちろん、暖かい心、耐え忍ぶ心を持ったロシア人が大好きですし、ロシアの風土も大好きです。
私はロシアを心から愛してます。

 

--ありがとうございます!岸本さんのロシア音楽、ロシアへの愛情が肌で感じられるインタビューでした。今日は本当にありがとうございました。

 

岸本力さんに関する情報はこちらから

岸本さんのHP:http://naks.biz/kishimoto-chikara/

11月5日に開催予定の「第34回 岸本力 バス・リサイタル」について

http://www.nikikai.net/concert/20211105.html

 

 

 

(インタビュアー/山地ひであき)

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