日本・ロシアに縁をもつ「人」にスポットを当て、その「人」を紹介、そして「人」を通じて、ロシアの魅力や 日本とロシアの関わりなどを、車でドライブするような冒険心を持って発信していく「日ロドライブ」。
第21回のゲストは、ロシアを始めとするユーラシア地域との交流を目的とした団体「一般社団法人 欧亜創生会議」の代表・安本浩祥(やすもとひろよし)さんです。
安本さんは、現在「一般社団法人 日本JC友好の会」の理事も務めていらっしゃるほか、過去には、ロシア国営ラジオ放送「ロシアの声」(Voice Of Russia)でアナウンサーをされていた経験やモスクワ国立大学ジャーナリズム学部で教鞭を取られていた経験もお持ちの方です。
学生時代には馬術障害飛越の競技をされていて、なんと全国大会に出場された経験も。
東京外国語大学出身で、大学時代からウズベキスタンやモスクワへ留学をされていた安本さん。
そんな安本さんへのインタビューですが、今回は前編・後編の二回に分けてお届けさせていただきます。
前編では、安本さんの留学時代のお話やロシアへの想い、ロシアの職場環境などについてのお話をお届けします。
ロシアでの馬術。スポーツを通じて現地に受け入れられる
--今日はよろしくお願い致します。最初にアイスブレイクがてらお聞きしようと思うんですが、安本さんは馬術障害飛越の競技をされていたんですよね?唐突なんですが、ご経歴を拝見して、思わず目に止まってしまって…(笑)
こちらこそ今日はよろしくお願いします。
そうですね、馬術障害飛越は中学2年生から10年以上続けたスポーツで、僕の経験上、一番長く続いたスポーツでもあります。
モスクワ生活時代にも、ロシア内務省の騎馬警官隊の厩舎に行って、週に何回か練習させてもらっていました。
モスクワに行く前は、大学時代に全国大会に出場したこともありましたし、それなりに自信があったんですよ。
けど、騎馬警官隊の練習で、「あなたは馬には乗れているけど、それは馬術じゃない」と言われてしまって(笑)
モスクワはヨーロッパに近いので、ドイツなど、ヨーロッパの国々で馬術を学んだ人もいて、日本とはレベルが違うんですよ。
それからみっちり鍛え直されました(笑)
その後、モスクワで行われた地区大会に参加する機会があったんですが、その成果もあって銀メダルを取ることができました。
大会では、当初、唯一のアジア人ということで、「なんやこいつ」って感じで、悪目立ちしてたと思うんですが、実際に競技を見てると観客たちにもわかるんですよね、良い記録が出そうだというのが。
実際、競技が終わった後は拍手で迎えられて、「受け入れられたな」と感じましたね。地元の新聞にも掲載されました。
ロシアは日本よりも人と馬が身近なので、馬術を通じて、思わぬ出会いや気づきなどもありましたね。「馬に乗るのは好きだが、馬肉を食べるのも好きだ」と言ったときは、ロシア人たちにドン引きされましたよ(笑)
私が留学していたウズベキスタンや、同じ中央アジアのカザフスタンなどでは、馬は「食べてヨシ、乗ってヨシ」という感じなのですが、モスクワの馬術界では、「友人を食べるなんて…」という感じでしたね。
一般的な「好き」や「関心」とは違う“ロシアへの愛”
--日本に住んでいるとなかなか馬との縁はないですもんね〜。馬肉のお話面白いです(笑)ありがとうございます。ここから、本筋の質問にも入っていきたいんですが、安本さんがロシアに関心を持つようになったきっかけはなんだったんでしょうか?
実は、僕ロシアに関心ないんですよ(笑)
関心を持ったこともないですし、「ロシアを好きか?」と聞かれても、そんなに好きじゃないと答えるかもしれません。
これが僕の意識の中で大前提にあります。
ロシアと関わるようになったきっかけは大学受験です。
ミッション系の高校に通っていたんですが、当時から、英語が好きだったので、東京外国語大学を受けることは決めていました。
どの語学の学科を受験するかは決めてなかったんですが。
英語は自分で勉強できますし、スペイン語圏は暑い、フランスは少しミーハーな印象があります。スペイン、フランスは両国ともにサッカーが有名なイメージですが、僕は野球の方が好きだったことも関係してますね(笑)
そうして、ロシア語を検討することになったんです。
調べてみると、東京外国語大学のロシア語学科は、日本で一番歴史のあるロシア研究・教育機関とのことで、「これはストーリー性もあるし、いいな」となったんです。
それに暑くないですし、当時はロシア=サッカーのイメージもなかったので(笑)
実際にロシアに行くと、めちゃくちゃサッカーが盛んだったんですけどね(笑)
そうして、東京外国語大学ロシア語学科に入学したんですが、入学したからには、ロシアに関心を持たないといけませんよね。
自分を無理矢理洗脳して、「ソ連ってすごく面白い!」、「ロシア文化は素晴らしい!」っていうように思い込むようにしていました(笑)
--ロシアに関心を持つために、自分をロシア好きに洗脳してたんですね(笑)
そうです(笑)
でもね、今になって考えると、僕は本当は「ロシア」について、好きとか嫌いとかを意識する以上に、無意識の部分で好きなんですよね。
なので、「ロシア好きです」、「ロシアに関心あります」ってことをあんまり言いたくないんですよ(笑)
そういう意識的に発言できる「好き」ではないんです(笑)
かの有名なロシア人作家・ツルゲーネフの詩の中に、「君(ロシア語)がいなければ、どうして絶望せずにはいられよう」という文言がありますが、僕もまさに同じことを思っています。
ロシア語の語彙や表現には、辛い瞬間や絶望的な瞬間を超えていける表現=思考方法が詰まっているんですよ。
なので、僕自身、人生の中で、「ロシア文化、ロシア語があるからこそ生きていけてるな」というのは感じています。
そういう意味で、ロシアは好きですし、関心はありますけど、一般的な「好き」や「関心」とは違うので、僕はいつも「ロシアのことは好きでもないし、関心もありません」と言うようにしています(笑)
失恋。そして「はじける」ことを目標にした留学生活
--もはや潜在意識レベルの好きなんですね!!安本さんは大学に入学されてからはロシア留学もされていますよね?ぜひ、そのきっかけやエピソードなどもお聞きしたいです!
ロシアに留学したのは、単純に外国に行きたかったからです。
何かを研究したいとか、何かの本を書きたいとかではなく。
今はもう外国暮らしなんて、嫌ですけどね(笑)
その当時は、外国に住むということに、単純な憧れがあったんです。
ロシア語学科に入学したからには、海外留学がしたい、ということで、大学3年生でウズベキスタンに留学しました。
ちなみに、普段、他人から「留学のきっかけはなんですか?」って聞かれると、僕はいつも「失恋です」と答えてます(笑)
大学時代、失恋した時、僕は「自分が男として情けないからこんなことになったんだ」と思って、自分の了見や懐の狭さを自覚しました。
そして、これは「今まで行儀良く生きてきたために、はじけたことがない」というコンプレックスに起因することに気付いたんです。
なので、「はじけたい」と思って。例えば、オープンカーを乗り回して、シャンパンを飲むみたいな、80年代の洋画のようなはじけ方をしたいなと(笑)
ただ、日本では既にキャラが固定されてしまっています。コンプレックスを克服して、「はじける」には海外に行くことがマストだったんです。
そこで、学内の留学募集案内で、ロシア語学科の対象地域として、モスクワとウズベキスタンがあるのを見つけました。
モスクワはそのうち行く機会があるだろうと思っていたんですが、ウズベキスタンはどうだろうと思って。
当時、ウズベキスタンにはイスラム・カリモフ大統領という独裁者がいたんですよ。もう亡くなっていますが。
今はビザなしで行けますが、当時は入国にビザが必要で、西側諸国から経済制裁もされていた国だったので、とてもエキゾチックな国でした。
なので、「これはもう、留学というルートでしか行けない国だな」と思って、ウズベキスタン留学に応募して、タシケント国立東洋学大学に留学しました。
--入国にビザが必要な時代のウズベキスタンに留学されたんですね〜!なんだかロマンがありますね!生活環境はいかがでしたか?
生活環境に関しては、そんな国だったので、
行く前は、「トイレットペーパーはあるのかな」とか、「どんな生活なんだろうな」とか色々考えてました。
けど、行ったらすごかったですね。
コカコーラもたくさんありました(笑)
ちなみに、トイレットペーパーはありませんでしたけどね(笑)
あったとしても、硬い藁半紙みたいなもので、酷いトイレだと、何にも置いてないので、僕はいつも鞄の中に新聞紙を入れてましたよ。
ウズベキスタンの中でも田舎に住んでいる友だちの家に遊びに行くと、イメージ通り、羊や鶏を飼っていて、その鶏の首をガーッと切って、血を噴いている鶏を僕に見せながら「おもてなしだ」って言って、それが2時間後にスープになって出てきたりしたこともありましたね。
これは正直まずかったです…(笑)
ウズベキスタンの料理の中で、唯一まずかった料理です(笑)
そんな田舎の家にあるトイレに行くと、子ども用の算数ノートとかが置いてあるんですよ。
「このノートをちぎって、お尻を拭いてください」ということです。
江戸時代には、日本でもそういうことがあったそうですが、当時の日本とは全然違いますよね。
「はじけること」を目標の一つにしたウズベキスタン留学でしたが、そのおかげで悪友もたくさんできました。
ファルホッドさん、ラフモナリさん、ディオールさん。この3人が激烈な悪友で。
大学が終わったら、飲みに行って、水タバコを吸って、ディスコで朝まで騒いで、そのまま大学に行ったりとかもしてましたね(笑)
--すごい環境ですね〜!悪友とのお付き合いは楽しそうです(笑)当時、ウズベキスタンに住まれていた他の日本人の方との交流もあったりしたんですか?
当時、ウズベキスタン・タシケントに住んでいた日本人は少なかったんですよ。
在ウズベキスタン日本大使館で行われる新年会でも、大使館内に在留日本人が全員入れるくらいでした。
ただ、色んな面白い人がいましたね〜。
京大の大学院から来て、シンクタンクの奨学金をもらって、「ウズベキスタンの乞食」の研究をしている人とか。
ウズベキスタンには、喜捨を是とするイスラム教文化が残っているので、乞食がある程度儲かるんですよ。
そうした話もとても興味深かったです。
元日本共産党員で、JICAで日本語教師をやっている人もいましたよ。
共産主義の夢を追い続けている人で、ウォッカを飲みながら、夢を語るんですが、その人のお話だけで、小説が一冊書けるくらい、濃い人でした。
今もいらっしゃるかどうかわからないんですが、当時、タシケント国立東洋学大学には菅野玲子さんという教授がいて、偏屈(笑)な方だったんですが、当時の僕は若い生意気盛りで、学内唯一の日本人学生として、よくぶつかったりもしてましたね。
留学生としての待遇は特別待遇で、ロシア語の授業もウズベク語の授業もマンツーマンで教えてもらいました。
また、大学の日本語科にはネイティブスピーカーが少なかったので、当時の日本語講座長であったマリカ教授に頼まれて、学生にも関わらず、週二回日本語の授業も担当していて (笑)
留学生はそういった形でお金をもらってはいけないんですが、学内の代理の方がお金を受け取って、その方が私に渡してくれるといった方法で、お金も貰って教えていました(笑)
エピソードに関しては、他にも色々とあるんですが、たくさんありすぎるので、このあたりで割愛させていただきます(笑)
偶然の出会いを逃さず、「ロシアの声」に就職
--いや〜、面白い話がいっぱい出てきそうなので、ぜひまたの機会に教えてください(笑)!その後、安本さんはモスクワにも行かれて、ロシアの国営ラジオ「ロシアの声」(Voice of Russia)のアナウンサーをされていましたよね?ぜひ、そのお話もお伺いできればと思います。
タシケント国立東洋学大学に通いながら、「はじける」という目標を達成したわけですが、「将来どうやって食べていこうかな」、「日本に帰ったら何をしようかな」っていうのは、結構考えていました。
昔から、なんとなく海外で仕事がしたいとは思っていたんですが。
そんな生活を送る中で、ラジオを聴いていると、たまたまモスクワのラジオ局の番組が流れてきたんですよ。
これが「ロシアの声」でした。
「ロシアの声」について調べてみると、日本のNHKのような放送局で、世界に向けて、ロシアのニュース等を発信しているラジオであると。
当時、それを見て、「ここに入れたらいいだろうな」っていうのは漠然と思ったんですよね。
そうこうする内に、日本に帰国しました。
帰国して、2ヶ月後くらいです。大学の指導教授に呼ばれて、「実は日本JC(※公益財団法人日本青年会議所。青年経済人の社会活動を目的とする団体)という団体が、短期でロシアとの学生交流をしている。この日本JCから東京外国語大学に、一般の学生とは別に、大人たちの通訳もできるような学生を一人呼んでほしいと要請があった。ウズベキスタンから帰ってきたばかりで、恐縮なんだが、安本くん行くか?」と言われたんです。
日本JCの学生交流は参加費無料だったんですよ。
無料でモスクワにも行けるとなれば、行かない理由はないと思って、「ぜひ行かせてください」と返答しました。
ここから日本JC、日本JCロシア友好の会(※現在は「一般社団法人 日本JC日ロ友好の会)とのお付き合いが始まった次第です。
その後、モスクワ大学にも派遣留学させてもらったんですが、その際に日本JCの代表団がモスクワに来られる機会があったんですよ。
その代表団に、「ロシアの声」の記者の方が通訳として、取材がてら同行されていたんです。
その人の名刺をもらった時にピンときました。
「あっ!これは、あの『ロシアの声』や!千載一遇のチャンスだな」と。
当時はまだ大学生。就職先を絶賛募集中です。
名刺をもらってすぐに、その記者の方に「実は、あなたのところ(ロシアの声)で働きたいんです」と伝えました。
すると、「ちょうど今空きがあるので、手伝ってほしい。また電話してほしい」と言われて。
その後電話すると、「明日会社に来てほしい」と言われたので、翌日さっそく足を運びました。
その時は、一度会社の建物の中に入ったら、働かせてもらえることが決まるまで、そこから絶対に出るもんかという厚かましい覚悟というか、自信がありましたね(笑)
当時、そのくらい必死でアピールした甲斐もあって、学生の立場で、お手伝いをさせてもらえることになったんです。
--偶然訪れたチャンスを逃さなかったんですね!「ロシアの声」ではどのような仕事をされていたんですか?
「ロシアの声」は世界中、色んな言語で放送されていますよね。
僕の最初の仕事は、日本語放送向けにロシアのニュースを翻訳することでした。
当時は必死です。学生生活そっちのけで、仕事をしてました。
そうした下積み期間を経て、晴れて「ロシアの声」に正式に就職できることになって、アナウンサーとして働き始めました。
初めての社会人生活が「ロシアの声」から始まったわけです。約4年間働きました。
「ロシアの声」というのは、戦前の大女優である岡田嘉子さんの物語をはじめ、大先輩たちが色々な悲しい出来事を乗り越えて築き上げられてきた歴史そのものなので、私みたいな若輩者がお話させていただくよりも、日向寺康夫元チーフアナウンサーといった生き証人の方々にお話を伺われるといいと思います。
本当に当時も、大先輩方には大変お世話になりました。
順風満帆なロシア生活の中で、次第に感じるようになった「虚無感」
--下積み期間を経て、正社員の立場を獲得したんですね!就職含め、様々な困難もあったと思うんですが、差し支えなければ、辞められた理由もお伺いしていいですか?
ロシアの声に就職して、しばらくしてからです。友人が、モスクワ大学ジャーナリズム学科で教鞭を取れる人材を探しているとのことで、僕にその誘いがあって、当時、モスクワ大学の講師としても働いてたんですよ。
なので、昼間は「ロシアの声」で働いて、モスクワ大学の講義がある時は、早めに退社して、夜に講義を行う、といった生活をしていました。大学での講義は週3日、1日3時間でした。
こんな生活をしていると、金銭的にも時間的にも、毎日が充実してたんですよね。
当時は生意気盛りでしたからね、全部手に入れたと思ってしまったんですよ(笑)
やりたいことは全部実現できた、人生って虚しいなと。
唯一経験してないのは、「死」だけだと思って、北極海で死ぬことを本気で考えたくらいです。
そんな時に、たまたま聖書を読んだんですよ。
僕は中高一貫のミッション系の学校出身だったので、これまでにも聖書を読んだことはありましたし、宗教の授業は好きな方でした。
ただ、この時は聖書を読むこと自体久しぶりで、当時の、ある種病んでいた僕の精神状態に、聖書の内容がすごく響いたんですよね。救われた気持ちになりました。
そこで、母校に手紙を書いたんです。
「修道者になりたいです」と。
母校は僕の申し出を歓迎してくれて、母校で用務員として働きながら、修道者を目指すことになり、それがきっかけでモスクワから日本に帰国することになりました。
ただ、1年後には、修道院を辞める形になってしまい、応援してくれた信者の方々や学校関係者には不義理をしました。
いまだに顔を合わせられません(笑)
この恩をどのように返していくかは、これからの僕の人生の中でのテーマの一つですね。
--人生への虚無感から、修道者への道を目指そうと決めたことが、モスクワから帰国したきっかけだったんですね!
20代で権威ある大学や国営メディアで働いていたこともあり、調子に乗ってしまってたんですよ(笑)若造が、毎日タクシー使ったり、運転手を雇って、ゴルフに行ったりとかもしてましたから。アホでしょ(笑)
やっぱり、そんな人間になったらダメですよ。
今思えば、あの虚無感の正体は、「一回死んで(死んだ気になって)みろ」という、天からのお告げのようなものだったんじゃないかと思っています。
それから現在に至るまで色々ありましたが、今は結婚した妻にとても感謝しています。
まさに生きがいをくれた存在といっても過言ではないので。
ロシアで働く魅力
--いいですね〜!奥さんとのエピソードもまた聞いてみたいです(笑)ロシア国営メディアでの勤務、モスクワ大学の講師など、貴重な経験をされてきた安本さんですが、ぜひロシアで働く魅力も教えてください!
ロシアで働くのは魅力しかないですよ(笑)!
少なくとも、僕が働いていた「ロシアの声」やモスクワ大学は、とても働きやすかったです。
まず、日本ほど職場に管理されないことが魅力ですね。
「〇〇時に、〇〇の場所に出社していなければならない」といったことが、日本ほど厳格ではないです。
夕方からの観劇のために、早めに退社することが許されるような職場でしたから(笑)
当時、ロシアの有名雑誌のインタビューで、ロシアで働いている理由を尋ねられたことがあったんですが、「人間として生きられるからだ」と答えたくらいです。
今はそこまで思ってませんが、当時は「日本の労働=ロボットのような働き方」だと思っていたので。
そもそも、日本人とロシア人では、働くということに対する価値観が全く違うと思うんですよ。
日本人は、基本的に労働を生活の中心に据えて、その余暇で他のことをするじゃないですか?
ありふれた言い方にはなりますが、ロシア人の中では、まず「人生」が中心にあって、その一部としての労働なので、労働はお金を生み出すツールでしかないんです。
また、日本の職場では、肩書き以外でその人の内面が見えてこないですよね。
日本とロシアの職場環境を比較すると、明らかに日本の職場の方が、職員同士が共有している時間が長いにも関わらずです。
ちなみに、ロシアの職場では、仕事以外でプライベートの時間まで付き合いをすることはほとんどありません。
なぜ、職場の人間の内面が見えないか考えると、「日本の職場環境が『嘘の世界』である」といったことが挙げられると思います。
嘘つきだらけですよ(笑)
その点、ロシア人は本当に正直者でしたね。
ロシア民話の「イワンのばか」じゃないですけど、本当に実直で、一言二言交わすだけで、その人の内面やストーリーが強烈に見えてくるんですよ。
だから、こっちも自分の内面やストーリーをぶつけていかないといけないな、となるんです。
私的には、ロシア人のそういう部分がすごく良かったですね。
---後編に続きます―――
(インタビュアー/山地ひであき)