日本・ロシアに縁をもつ「人」にスポットを当て、その「人」を紹介、そして「人」を通じて、ロシアの魅力や日本とロシアの関わりなどを、車でドライブするような冒険心を持って発信していく「日ロドライブ」。
第35回のゲストは、「NPO日ロ交流協会」の専務理事・内堀學さんです。
「NPO日ロ交流協会」は、1965年に創設された旧ソ連との民間交流団体「日ソ交流協会」を起源とし、今日まで至る、非常に歴史のある団体。同団体の専務理事を務める内堀さんは、大学時代からロシア語を学び、日本の総合商社でモスクワ駐在事務所長のご経験もある方です。
今回は、そんな内堀専務理事に、日ロ交流協会の活動やモスクワ駐在時代のエピソードなどをお聞きしました。
(※下記回答は全て内堀専務理事の個人的な回答です)
NPO日ロ交流協会とは?
--まずはじめに「NPO日ロ交流協会」について教えていただければと思います。
「NPO日ロ交流協会」は、元々、旧ソ連との民間交流(特に学術、文化、経済)の窓口団体「日ソ交流協会」として1965年に創設されました。
その後、1991年のソ連崩壊を経て、1993年に「日ロ交流協会」となり、2000年には非営利活動法人「NPO日ロ交流協会」に改組されて、今日に至っています。
現在は、主に在日ロシア大使館、在日ロシア通商代表部、在日ロシア人・留学生などを対象とした生け花、着物浴衣着付け、友禅、料理等文化交流、日本語教育などを継続しています。
また、ロシア各地に所在する、ロシア側の民間人の交流団体である「露日協会」の各地の支部等及び現地日本大使館、領事館と連携して日本文化交流団をロシア各地に派遣しています。これに関しては、新型コロナウイルスの蔓延に伴い2020年以降は中断していますが。
また、一般の日本人社会人、学生を対象にロシア語教室などロシア語教育やロシアの大学への留学支援も実施しています。
(※沿革や活動の詳細は「日ロ交流協会」HPからも確認できます)
内堀さんがロシアに関心を持ったきっかけ
--内堀さんがロシアに関心を持ったきっかけは何だったんでしょうか?
1967年、私が、私学の高校に入学した際、第二語学に独、仏、露の3言語の選択肢がありました。当時、私の自宅近所には、大学の露文科で先生をしている方が住んでおり、その親しみもあって、抽選の必要ないロシア語を選択しました。これが私がロシアに関心を持ったきっかけです。
当時、ソ連は宇宙技術など科学技術先進国であり、将来はドイツ語を抜いてロシア語が学習必要な言語になると言われていました。
駐在時代の印象的なエピソード
--総合商社で、モスクワ駐在をしていらっしゃった際に印象に残っているエピソードを教えてください!
私は、商社時代、1982年から1983年(モスクワ)、1985年から1988年(モスクワ)、1992年から1993年(キエフ)、2004年から2008年(モスクワ)に駐在しました。
駐在事務所長時代は1992年から1993年(キエフ)、2004年から2008年(モスクワ)です。
1982年から1983年は、ブレジネフ書記長逝去後のアンドローポフ、チェルネンコの70年代から始まった停滞の時代の末期でした。
1985年から1988年はゴルバチョフの登場、ペレストロイカ、グラスノスチ、節酒令、そしてソ連崩壊までの共産主義体制弱体化、あるいはビジネス上でのソ連時代の様々な制約の一時的解禁などが行われた期間です。
1992年から1993年は、ソ連邦崩壊直後のウクライナ・キエフでの駐在で、ガソリンスタンドにガソリンもなく、ビールもなく、仮の通貨(クーポン、私の記憶では「カルボーネツ」ですが、正しくは「カルボーヴァネツ」)以外独自通貨もない、旧ソ連時代の惰性で回っている混乱の時代でした。
ロシアでは90年代のことを「苦難の90年代(лихие девяностые)」と名付けています。
モスクワ駐在事務所長時代の2004年から2008年は、エリツイン時代に破産的壊滅状態に陥った財政経済、国民の生活状況が、エネルギー価格の上昇によって急速に回復していったことに伴い、プーチン氏がその権勢を高めていった時代です。
ちなみに、私がモスクワ駐在で一番印象に残っているのは、1986年4月のチェルノブイリの原発事故とその後の牛乳他安全な食料確保の苦労、そして当時3才の息子が食料の問題下、「腸重積」を起こし、結果的に大事に至らずにすみましたが、病院に二度緊急搬送し、その死までを覚悟したときの気持ちです。
当時、息子がお腹が痛いと言い出して、宿舎のあったホテルの医者を呼んだところ、救急車を手配されることとなり、息子は何処かの救急病院に連れていかれることになりました。
当時のソ連では一度身柄を預ければ、その後は先方からの連絡を待つしかないという状況です。必死に自分の車で救急車を追いかけ、救急病院に行き着きました。しかし、なぜか、その場で息子のお腹の痛みが一時的に引いてしまいます。その時点では、ほっとしてそのまま息子を引き取って、自分の車で宿舎へと引き返しました。
しかし、息子の痛みは断続的に繰り返しました。次の日の夕刻だったと思いますが、必死の思いで、覚えていた病院へ自分の車で息子を搬送したところ、即入院となりました。
妻だけが病院に残り、付き添うことが許され、私と当時5才だった長女は宿舎に戻ることになりました。
その夜、小さな娘とふたりで宿舎の入口のソファベッドで過ごした、息子の無事を祈るしかない苦しい時間は、今思い起こしても、二度と味わいたくない辛い体験でした。
翌朝の早朝、病院に向かうと、医者から病名がロシア語でインボギナーツィア(私の聞き取った発音で、正しくはинвагинация)で、肛門から腸に空気を吹き込むことで腸が元に戻ったと告げられ、思いがけないことに、息子を引き取っていいと言われました。
後に、この病名が「腸重積」であることを知り、間一髪のところで命に関わる重症化には至らず、間に合ったのだと思い、運命に感謝しました。
他には、ロシアのエリツイン時代、1992年から1993年のキエフ事務所長時代のことですが、任期終了間近の1993年10月に、モスクワの最高会議が所在する「ホワイトハウス」が、対岸のウクライナホテルに繋がる橋から戦車で砲撃されているのを、キエフのテレビで見た記憶があります。
たしか、当時のエリツイン大統領が最高会議議長による政権転覆の反乱を軍を動員して抑えた時のことだったと思います。
遠いキエフにあって、旧ソ連時代から慣れ親しんでいた懐かしい「ホワイトハウス」に砲弾が打ち込まれる様子を見て、なぜか妙に遠い事象と感じた記憶があります。
「NPO日ロ交流協会」の専務理事として
--内堀さんが「NPO日ロ交流協会」の専務理事に就任したきっかけをお聞きしてもよろしいですか?
私の商社時代の先輩の大恩人(モスクワの駐在事務所長を長く勤められた方)が商社退社後、当協会の専務理事に就任され、同氏が退任される時期が、私が商社を退職する時期と重なり、2010年同氏の推薦で当協会の理事・事務局長に就任しました。
2016年に前専務理事(現会長)の退任に伴い、専務理事に就任し現在に至っています。
--内堀さんは専務理事としてどういった活動をされているのでしょうか?
専務理事の対外業務としては、在日ロシア大使館、在日ロシア通商代表部、在ロ露日協会及び各地支部、日本外務省ロシア関連部局、日ロ交流に関わる民間の諸交流関連団体に関わる公の交流催事への協会を代表しての参加、幹部との面談、その他必要と思われる場合の会合への参加、出席などを行っています。
「NPO日ロ交流協会」の現状と今後
--最後に「NPO日ロ交流協会」の現在の活動と今後についてお聞かせしてもらえればと思います!
今年の2月24日、ロシアのウクライナに対する特別軍事作戦以降、日本とロシアの公的機関の接触や交流は著しく限定され、一般市民の交流機会は激減しています。
当協会としては、できる限り従来の交流活動は維持しつつ、ロシア以外の旧ソ連諸国、例えばキルギスやウズベキスタンといった国々との交流を模索しています。
私自身、旧ソ連、ロシア、及び旧ソ連諸国とは学生時代を含めると50年以上の交流があることになりますが、現下のような両国間の厳しい状況は、これまでに経験したことがありません。
当協会は政治的、宗教的事業問題には一切関与しない立場を貫いておりますが、地方自治体レベルでは対ロ交流の自粛が進んでおり、苦しい局面が続いています。
しかしながら、我々としては、当初に述べたとおり、日ロの一般市民レベルでの草の根交流は堅持し、継続していく方針です。
--ありがとうございました!私たちもロシアとの草の根交流を堅持していきたいと思っています!貴重なお話をありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。
内堀學さんの所属する「NPO日ロ交流協会」の情報はこちらから
↓
名称:NPO日ロ交流協会
HP:http://www.nichiro.org/
(構成/日ロドライブ編集部)
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